ある春の夜の事。
僕は、先日結ばれたばかりの恋人のお招きに預かり、
彼女が借りているアパートの玄関先で、彼女が鍵を開けるのを待っていた。
長い黒髪の一部を、後頭部の高い位置でシニョンにまとめた、
ややきつい目つきだけど、優しげな表情。
清楚な雰囲気に見合う、淡い色でまとめられたカーディガンとスカート。
それらの内側に息づく、なめらかながらしっとりと吸いついてくる白い肌、
豊かに実った胸元、たおやかな手。
優美ながら、捕食者特有の禍々しさをもほのめかす八本の脚に、
お尻の辺りに生える、節足動物じみた腹部。
すべらかな額に煌めく、ルビーのような六つの単眼。
……うん、ここで疑問に思った人がいるかもしれないので、一応の説明を。
僕の恋人は、人間ではない。
ロールプレイングゲームに、敵役のモンスターとして登場しそうな、
人と蜘蛛が融合したような異形――本人はジョロウグモと名乗っている――なのだ。
頬に走る紅い牙のような紋様や、凶悪な外観の下半身に似合わず、性格はいたって穏やか。
ただし夜になると……いや、その話はまた別の機会に……。
ともかく、僕が、初めて招かれた恋人の部屋に、大きな期待と、ごく僅かの不安で、
胸――と、ついでに身体のとある一部分――を膨らませていると、
ドアを開きながら、はにかんだ微笑を浮かべた持ち主が、入室を許可してくれた。
「じゃ、入って」
と、僕が生涯忘れえない第一歩を踏み出そうとしたところに。
眠そうな目つきで、撥ね癖がついた茶髪の青年が、
キツネめいた耳と、三本の尻尾を生やした、同じ年頃の女性の手を引いて通り掛かった。
青年の方は片手で腰をかばうように、女性の方は何やら内股で歩き難そうにしていたが、
ふと僕らの方を見やり、口々に声を掛けて来た。
「あ、みとさんこんばんわー」
「どうも」
「こんばんは……安倍さん達も、お出かけしてらしたんですか?」
「ん、ちょっと晩ごはん食べに」
ここまで言って、キツネ耳の女性は、あらためて僕に注意を向けたようだった。
ミニスカートに隠されたお尻まで届く、赤みがかった金髪から覗く耳がぴくぴく動き、
琥珀めいた大きな目は、瞳孔を縦裂きのスリットに絞る。
何やら唸ったり、口元を楽しげに歪めたりしている女性に、僕は、
「ど、どちらさまですか?」
……びしりと問い質そうとして、失敗した。
うう、女性恐怖症も、治してもらえたはずなんだけどなぁ、みとさんに……。
ちなみに“みと”とは、
先程からドアの隣に佇んだまま、困ったように笑っている僕の恋人の名前である。
フルネームだと滝沢みと、水が透けるで水透。
ただ、本人は「漢字で書くと、大仰で嫌なんですよねぇ……」とこぼしていたので、
平仮名で表記させてもらう事にしよう。
話を戻して。 キツネ耳の女性が、僕に答えを返そうとしたのか、口元を蠢かせた瞬間、
連れの青年が、やや申し訳なさそうな表情で、僕達の間に割り込んで来た。
「ああ、すんません、ウチのツレが……」
「いいえ……妖狐の方、ですか?」
「稲荷だよ! よく間違えられるけど!!」
「夜遅くに騒ぐなバカ」
「きゃん! 人前ではたかないでよぉ」
「ずいぶんといい音がすると思えば、あなた達ですか……」
身も蓋も無く言えば、奔放で享楽的なのが妖狐、穏和で家庭的なのが稲荷、だったろうか。
どちらも、油揚げと肉をこよなく愛する、キツネめいた耳と尻尾を持つ獣人だ。
……などと、僕が脳裏でそんな情報を思い返していると。
安倍夫妻が来たのとは反対の方向から、白い着物に身を包んだ、
やや小柄な少女が、のっそりとやって来た。
腰の辺りで切り揃えられた癖の無い白髪、
同じく眉の辺りで切り揃えた前髪の下に、大きな吊り気味の半眼、小さめの鼻とへの字口。
何より目を惹くのは、深い青色の肌だろうか。
昔話とはだいぶ違う容貌だが、ゆきおんな……温厚で一途な性質と、
やや暑がりな体質の持ち主だったはずだ。
「や、なおちゃんこんばんわー……で、いい音ってどーゆー意味?」
「中身が無いからじゃねえか?」
「中身が無いからですね」
『ひっぱたいたらいい音が出ると』
「みとさぁん、旦那とお隣さんがいじめるぅ……」
「兄妹か何かみたいだなぁ」
先程、旦那さんに軽くはたかれた後頭部をさすりつつ、稲荷の女性が訊ねると、
間髪入れずに返って来たのは、青年と蒼白の少女の二重砲火だった。
思わず僕が、上記のセリフを漏らしたのもむべなるかな。
みとさんに頭を撫でられながら、あやしつけられる女性をほったらかしに、
なおと呼ばれた少女は、今度は僕の方に目を向けてぼやいた。
「……安倍さんみたいな兄なら構いませんが、橙火さんみたいな姉は願い下げですね」
「ああ、なおさんみたいな妹がいたら嬉しいけど、美濃みたいな弟
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