女房蜘蛛逆夜這奇談

「鬱だ……」

その青年は、片手で目許を抑え、ベッドの上で喘ぐように呟いた。
中肉中背、栗色の短い髪、整ってはいるが、どこかぼんやりとした顔立ち。
ラフな身なりの彼は、目許を抑えたまま、自室で搾り出すように呻いた。

「魔法使いルートまっしぐら、か……」

数分前、日付が変わったので二十歳、
女性経験はおろか、生まれてこの方恋人がいたためし無し。
顔立ち、成績、運動能力、ついでにコミュニケーション能力はそれなり。
ただし、最後のものは同性に対してのみ。
異性に対しては、どうにもちぐはぐな言動になるためか、
知人友人レベルを抜けだし切れない、そんな人物であった。
夢見がちな性向と、それを隠しきれないズボラさ――もとい、オタっ気――が、
仇になったのかも知れない。

と、ここまで自己分析をしたところで、魂が抜けていくようなため息をつき。
一発抜いて不貞寝すっか、みじめだけど……とひとりごちた青年の耳に、
この時間帯には場違いな、来客を告げる音色が届いた。

「誰だよ一体……」

近所迷惑だなとぼやきながら、彼は訝しみつつアパートの玄関扉を開けた。

「ごめんください」

晩春の夜気の中、「夜分におそれいります」と続けたのは、

今時珍しい、一纏めに結い上げられた艶やかな黒髪に、赤みがかった褐色の瞳。
色白のあどけない顔立ちや、小柄な身長とは裏腹に、凶悪に膨らんだ胸元。
時代劇に出演する、出来の悪いタレントなどとは比べ物にならないほど、
しっくりと着こなされた藤色の小紋――目を凝らすと、雲や霞を思わせる模様が確認できた――。

着物姿の若い女性だった。

「えっと……誰、ですか?」

当然、彼に、そんな和風美少女との面識は無いので、
一気に心拍数を上げた胸元を抑え、面食らいつつも尋ねるしかなかった。
問われた方は軽く一礼し、

「藍(あい)と申します」

彼の名を呼んで、やわらかな微笑を浮かべながら、お久し振りですと嬉しげに結び。
綻んだ口許からは、やや内側に切っ先を向けた、一対の八重歯が覗いていた。

「お久し振り? あん…あなたとは初対面では」
「いいえ、十五年前にお会いしておりますわ」
「んー……いや、ごめんなさい。
 あなたみたいな可愛い女の子と、会った覚えは無いんですけど」

残念な事に、と内心で続けながら、後頭部を掻く青年。
藍と名乗った少女は、一瞬恨めしげに眉をひそめるも、
すぐに合点が行ったという風情で、表情を再び綻ばせた。

「この姿でお会いするのは初めてですわね」
「このすがた?」
「その……覚えていらっしゃいますか?
 溺れかけていた私を、助けてくださった時の事を……」
「十五年前……溺れかけを助けた……?」
「はい!」

人命救助の経験などは無い。第一、当時の彼は五歳の幼児である。
その頃は、森と田んぼしかない田舎に住んでいたんだよな……と、彼が回想したところで、
「溺れかけを助けた」という単語と結びつき、息を吹き返した記憶は――。

――本来黒いはずの部分が、青みがかっていた脚。
――当時の友達は、気味悪がって遠巻きに見てただけだったけど。
――自分はかわいそうに思って、田んぼに踏み入って、手のひらで掬い上げて。
――田の持ち主の婆ちゃんには叱られて、
――だけど思いやりの心があるのは良い事だと褒められて。
――いつの間にやら、その場から姿を消していたのは。

「……あん時の、デカい、綺麗な、クモ?」
「思い出していただけましたか!!」
「うわっ、む゛っ!」

いきなり、青年は声を弾ませた少女に飛び掛かられて、抱きしめられた。
そのまま流れるように、口許に触れるのは、しっとりした甘み。
ひとしきり舌を絡ませられ、おまけに唾液を流し込まれたところで、藍は青年から唇を離した。
途端に、彼は驚愕の中に、嬉しさと恥ずかしさと悔しさが、僅かに混ざった面持ちで、

「は、初めてだったのに……」

と、怨ずるように言った。
対する少女はあっけらかんと、自分もそうだと返す。

垂れ気味の大きな目を半眼に細め、艶めいた微笑を浮かべると、
少女は再び、肉食獣が獲物に食いつくように、素早く口づけた。

あらためて、ほんのり甘い少女の体臭と唾液と、ひんやりしたなめらかな二の腕の肌触りや、
衣服越しの豊かな双丘の感触を味わいながら、
青年は『まあいいか、美人だし』と、幸せな気分に耽溺した。 ……腰を軽く退きながら。
反応しているものを少女に悟られたくなかったからである。

「……はぁ……んん……ん……ん、んん……ぁ……んむ、ふぅ…………」

青年の口中を、自らの舌と唾液で蹂躙し尽くすと、藍は白いものを引きつつ、彼から離れた。
そして微笑を深めつつも歪める。

それは、申し訳なさの裏に、悪戯を仕掛け終えたような稚気が混じった、

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