還り来たりし君を抱く

先日、生き残っていた唯一の肉親に先立たれた。 六歳年上の姉だ。
多少風邪をこじらせたと思ったら、あっという間に、病魔が彼女を食い殺しやがった。

簡単な葬儀の後、喪失感と看病疲れにとり憑かれた俺は、
何をする気力も無しに、ベッドの上で屍のように転がっていた。

たった何日か前までは、一週間前までは、
あの明るい笑顔も、ぬくもりも、俺は一人じゃないって安心感も、何もかもがあった。

今の俺には何も無い。 俺は、時間だか飢えだかは知らんが、そういった要因に、
じわじわと縊(くび)り殺されるのを待つだけの存在に成り下がっていた。

……ああ、姉を埋葬してから二回目の日没が来たらしい。
狭い寝室が、茜と黒に塗り分けられ、やがてはすべてが後者の手に落ちる。
それは、俺の意識も例外ではなく。

願わくは、このまま、彼女の居る場所に行ける事を――。





覚醒のきっかけは、肌寒さと、腿に感じるひんやりした感触と……
……股間に走った、稲妻のような快感だった。
股ぐらから背筋を這い昇る稲妻に呼応するように、俺の口から、くぐもった呻きが漏れる。

「あ、起きた?」

薄闇の中、耳に飛び込んできたソプラノは、のんきだが安らぎを感じさせるものだった。
物心ついた時から耳にしてきたけれど、二日前から永遠に聞けなくなったはずの声。
俺はバネ仕掛けのように身を起こした。
可愛らしい悲鳴が上がり、腿からひんやりした感触が離れて行ったのにも構わず、
ベッドの上に投げ出されている脚の方に目を向けると。

「もー、いきなり起きないでよぉ……顔ぶつけたらどうするの?」

ほのかに差す月光が、俺の脚の間に蹲(うずくま)る、小柄な影を照らしていた。

背の中程まで届く銀灰色の髪、軽く吊った目の中に輝く紫の瞳。
ツンと立った小作りな鼻と、緩やかに弧を描く瑞々しい唇が、
四半世紀生きた彼女を、実年齢より五歳は幼く見せている。
華奢な褐色の五体は、ゆったりとした白い死装束に包まれていたが、
一度土中深くに埋められた事を示すかのごとく、ところどころ暗色の汚れが目につく。
ついで目を凝らしてみると、手の指や甲があちこち擦り剥けているようだった。
棺桶の蓋をこじ開ける際に、内側から殴りでもしたのだろうか。
俺は無意識の内に手を伸ばし、彼女のそれをとって検めた。
思った通り、キズだらけになって、おまけに多少冷たくなってはいたけれど、
別れる前と同じ、くたびれた、優しい感触。
細く小振りながら、しっかりとした肉の手応えにうろたえつつも、
俺は搾り出すように、目の前の若い女に問いかけた。

「痛むか?」

二十歳前とは思えない、老いさらばえた嗄れ声。
それへの返答は、声音も内容もあっけらかんとした軽いものだっただけに、
一層違和感が強調されていたように思えた。

「あー、だいじょぶだいじょぶ……じゃないや」
「え!?」
「夜中に大きな声出さないでよ、近所迷惑じゃない。」
「でも、大丈夫じゃないって……」
「違う違う、手とか身体が悪いって意味じゃなくて、言い忘れてた事があったなって」

そう言って、彼女は背筋を伸ばすと、表情を綻ばせた。
こないだまで見る者を元気づかせていた、俺の生きる理由だった、活力溢れる笑顔。
以前と違う点があるとすれば、長さと鋭さを増した糸切り歯くらいだが、些細な事だ。
今、彼女がここに居てくれているという事実の前には。
何はともあれ、

「ただいま。 還って来ちゃった」
「お帰り、姉ちゃん」

俺は、黄泉還って来た姉と、手を握り合ったまま、ベッドの上で苦笑を交わし合った。
多少冷たくなっていようが、子供の頃と変わらず、
しっかりと握り返してきてくれるやわらかく小さな手に、
俺は、熱くなった両目が、僅かに視界をぼやけさせるのを抑える事ができなかった。
ただし、おぼつかなくなった視界でも、対面に座り込む彼女もまた、
目尻を潤ませていたのだけは、はっきりと認識できたけれど。




「……で? 説明してくれないか?」
「何を? 言っとくけど、『何で還ってこれたか』なんてのは無理よ?
 気がついたら、地面にぽっかり空いた穴ぼこの隣で、
 墓土まみれでぜーぜー言ってたんだから」
「そっか……お疲れさま」

ねぎらいの言葉をかけると、姉は嬉しげな笑みを浮かべ、いきなり俺に抱きついてきた。
墓土を落とす為に水でも被ったのか、彼女のつむじ周りはしっとりとした光沢を帯びて
……っと、そんな観察をしている場合じゃない。
ほのかな甘い体臭と、わりと大きな胸の感触は、危険物以外の何物でもないのだ。
殊に、今の俺にとっては。

「姉ちゃん、離れてくれ」
「何でよ?」
「……なんでか下半身裸だからだよ、脱いだ覚えは無いんだけど」

その言葉に、俺に向けられた、不機嫌そうな半眼がそらされた
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