かつて、1人の騎士がいた。彼の名はニース・アバーリン。
彼は教団の聖騎士として、節度ある生活を送っていた。
しかし実のところ、彼の主神への信仰は薄かったと言っていい。
聖騎士という職も、彼の場合は成り行きでなったに過ぎない。
かといって、魔物側へと寝返ることも万に一つも有り得なかった。
なぜなら。
「あなた、夕食の準備ができましたよ」
「ああ、すぐに行くよ」
彼は妻のレノアを異常に愛していた。それはもはや、心酔とも言えるほどに。
彼が主神を信仰し、教団の聖騎士となっているのも、レノアが敬謙な主神の信者であったからに過ぎない。
そう、彼にとっての神は主神ではなく、自らの妻だった。
「今日は新しいメニューに挑戦してみたのであまり自信はないのですけれど……」
「なに言ってるのさ、君が作ったのに美味しくないわけがないだろう?」
「まぁ……」
ニースの言葉に、レノアは手を口元にあててクスクスと笑う。
その頬はわずかに赤らみ、ニースに向ける表情にも照れが混じっていた。
「……今日も我々に恵みを与えて下さったこと、感謝いたします。いただきます」
「いただきます」
レノアが神への感謝の祈りを捧げ、ニースはそれを復唱する。
一般的には家主であるニースが言うはずの祈りだが、この家ではレノアが言っていた。
しかし、ニースが祈りの言葉を知らないというわけではない。
「ねぇあなた、やっぱりこの祈りはあなたがやったほうが……」
「僕みたいな凡庸な男より、君みたいなキレイな女性の方が神様もお喜びになるよ」
爽やかに微笑んで言うニースだが、もちろん方便である。
本当は、彼女が祈りを捧げる姿を見たいがためのことだった。
「もう……不信心ですよ」
「ははは、ごめんごめん」
少し照れながら困ったような顔をするレノアと、笑ってごまかそうとするニース。
2人は毎日そんな調子で、幸せに暮らしていた。
さて、そんな平和な日々ばかりがそういつまでも続かないのが世の常である。
ある日、教団は魔界と化した地域の奪還計画を決定した。
その為の斥候として聖騎士団から十余名を送ることが決まり、その1人としてニースが選ばれたのだった。
「あなた……」
聖騎士の鎧を身につけ兜を抱えたニースの横で、レノアが不安そうに呼びかける。
出発の朝、騎士たちが集合した広場。
彼らはそこで、自らの家族に別れを告げていた。
周囲には楽団が並んで鼓舞の楽曲を演奏し、さながらパレードの様相を呈していた。
「心配ないさ。僕はともかく、他の人たちは立派な方ばかりだし……それに、神様の加護もあるしね」
少しでも安心させようと笑ってみせるニースだが、レノアの表情は晴れない。
古今東西、魔物が変化する前も後も、魔界に向かった騎士団が全員無事で帰ってきた例などありはしないのだ。
「無事に……帰ってきて下さいね……?」
「約束する。必ず君のところに戻ってくるよ」
夫婦は誓いの口づけをして、ニースは他の騎士とともに列を成す。
そうして、斥候役を賜った騎士団は出発した。
「神よ……どうか彼らに加護を……」
遠ざかる一団を見ながら、レノアのような残された者たちは皆、神へ祈りを捧げていた。
* * * *
――結論から言えば、奪還計画は失敗した。
斥候部隊は壊滅、戻ってきたのはたった2人。
彼らの話では、魔王軍と思われる一団に返り討ちにされ、大半が倒されたという。
そうして倒れた騎士は、魔物たちにさらわれていったとのことだった。
「そ……ん、な……」
教団の使者からの報を聞き、レノアは自分の耳を疑った。
使者が間違いに気付いて訂正してはくれないかと、誰かが間違いを指摘してはくれないかと周りを見回す。
しかし、周囲から聞こえる悲壮な声が、くずおれた人々の姿が、いま彼女が聞いたことは真実だと告げていた。
広場は、出発のときとは打って変わって沈んだ雰囲気に包まれていた。
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