深い闇。
昏々とした混沌。
光も射さぬ意識の水底。
『感情』と名付けられた、淀んだ水が濁ったような黒い泥。
『魔王の魔力』と讃えられる、ある種の指向性を持った黒い川。
黒と黒とが混ざり熔かされた混沌。
その底に果ては無く、その深みには原初の闇が沈んでいる。
右も左も、底も天辺も無い。
唯、概念的な『上下』があるだけの世界。
そんな世界に、『私』は生を受けた。
『私』の名前はドッペルゲンガー
人の望みを象る物。
人の願いを騙る魔。
嗚呼、『私』を生みし愛しき人よ……
この手が持つのは貴方の意識
私と貴方を繋ぐ糸
この糸を解いたその時に、『私』は肉体を得るのだろう。
この糸に記された願いを知って、貴方の望みをこの身に受けて……
そして『私』は、貴方好みの私になろう。
その時『私』は、きっと光を目にするだろう。
貴方のいる、あの愛おしい世界の光を目にできるのだ。
嗚呼、『私』を産んだ愛しい貴方。
今、あいに……
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その男を評するとすれば、まず『平凡』の二文字が浮かぶことだろう。
中肉中背。これといった特徴の無い、あるいみ小綺麗な顔。
古い麦穂のような短い茶髪に、深いオークの瞳色。
小さな町で、菓子屋を営む青年。
他に特徴と言えば、柔和そうな微笑みくらい。
仮に人の目に留まっても、すぐに忘れられてしまいそう……
彼は商人としては致命的な、そんな風な印象の青年だった。
決して裕福でも、楽な暮らしをしているわけでも無かった。
けれど彼は、のどかで平和な、その幸せな暮らしを好んでいた。
ある日の事である。
朝の仕込みを終えて、彼は安楽椅子の上でうたた寝をしていた。
ちょうど、昼時の書き入れ時まで待つばかり……といった時分。
そんな頃合いに、一人の婦人が表ドアーのベルを鳴らしたのだった。
「おじゃま致しますね……」
その婦人はドアーを開けたのと時を同じに、清潔そうな白色のつば広帽子を脱いで、たおやかに一礼をしたのである。それから遠慮がちに、奥ゆかしく店に入り、そこに店主の姿を見つけると、また優雅に一礼。
驚いたのは店主の方で、わたわたと慌てふためきながら身を起こし、何を思ったのか、こちらこそとでも言わんばかりに、後ろ頭に手をやって気恥ずかしそうに礼を返したのであった。それから婦人の注文を、まるで全くそれが王様の命令であるようにキビキビと働き。またその瞼が二重の凡な目で、チラチラと婦人の方に視線をやっているのである。
婦人は、両の手で取った帽子をへその辺りで受け置いて、物珍しそうに店の方々を見渡しながら、天女のように穏やかな微笑んでいる。またその真珠のような白く滑らかな肌の上に、肩を出す型のシルク製のワンピースを見事な風に着こなして、その少女らしい恰好と大人びた風な婦人の様相とが、ある種Unbalanceな美を構築していて、それが一層彼女を魅力的な風に仕立てていた。
店主はその彼女を見て、初心な少年にでも戻ったかのように顔を赤らめてしまうのだった。
対して婦人の方はといえば、そんな彼の可笑しな様子を見ながらも、笑うでも、また訝しんで眉をひそめるでも無く。まったく『貴婦人』と呼ぶに相応しい物腰で、きょとんと小首を傾げるなどとしているのである。
店主の頬が、ますます紅っぽく色めいた。
婦人は翌日にも来店し、シゥクリームを二つ注文した。
その際に一つ世間話などを始めて、ついぞ数日前に近くへ越してきたこと。道を覚えるかてらにこの店を見つけて、挨拶とも合わせて顔を出したのだということ。昨日のクッキーは美味しかったということ……
店主の男は必死になって、赤薔薇の花弁のような婦人の唇からこぼれ落ちる音を拾っていたが、鈴が転がるのよりも更に澄んでいるかのような声に、ただ上の空になって気の無い相槌を返すばかりだった。
それでも最後、婦人が出て行く間際に言った『また来ますね?』との言葉に、彼はハッとしたように正気に返り、威勢の良い返事と深々しい礼で応えることは出来ていたのだった。
それから、数ヶ月。
婦人は週に二、三度店へと足を運び、店主は時に上等な紅茶を出すなりしてもてなし、午後に差し掛かりはじめる気怠い時間を、実に有意義に充実した瞬間に変えていった。
別に何ということはない、ただ世間話をするだけだ。単なる小さな茶会に過ぎない。
けれども店主は、次第に、時が経つほどに、より一層に彼女への思いを深くしていった……
重ねて言おう。
彼女は正に、貴人と称するべき人物だった。
決して他を陥めるような言葉はなく、話の端々に見え隠れする配慮の色。指の先から頭のてっぺんまで一辺の見苦しさすらも見ら
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