日曜の昼前、少し仮眠を取り過ぎた諌は頭をばりばりと掻きむしりながら台所へやってきた。
ドアの向こうでは凪が楽しそうに会話しているのが聞こえる。
「…ああ、そういや日和ちゃん来てたんだっけ。
昼は刺身とアラ汁出すか…あとはキャベツの甘酢漬けでも添えとこう。」
昨日釣ったクロソイとマゴチがセミドレス――鱗や内臓、エラを取り除いた状態でチルド室に鎮座しているはずだ。
冷蔵室を開けると真ん中に鎮座しているコーヒーのボトル缶、あちこち凹んでいる。
「あれ、コーヒーは全部飲み干してなかったっけ…まあいいや、捨てよう。」
冷蔵庫から取り出し、中を洗おうと軽く振りながらシンクへ持っていった。
その瞬間、中身が沸騰しているかのように小刻みに震え、ぱちぱちと音を立てながら凹みが元に戻り、そこから一気に中身が膨張する。
慌ててキャップを開けようとするが、間に合わない……!
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時をほぼ同じくして台所の隣のリビング、ドッペルゲンガーの凪とリッチの日和の姉妹が撮り溜めしていたアニメを観ていた。
敵の能力が暴走し、主人公含めた周りの皆が記憶喪失を起こして大騒ぎになる話、レーズンやアーモンドを時々口に入れながら、寛いで眺めていた。
「そんなに高い薬なんだ…」
「1リットルで10万円ぐらいするよ。
魔力や紫外線に弱いし、冷やさないで振ったりなんかしたらすぐ揮発するし…。」
日和が開発に携わり、初めて世に出た新しい農薬の話をしていた。
病気になったり枯れたりした植物に掛けることで、暫くの間時間を巻き戻すことのできる画期的な商品であった。
しかし、製造の際に多くの魔力を用いる事から価格に難がある上、取り扱いも面倒な代物になってしまったとぼやいている。
「一応動物にも効果はあるんだけどね…。
安全データシートを作ろうするとコストがすごい事になるから、動物への使用は禁止に」
その瞬間、甲高くも烈しい破裂音、そして諌の悲鳴が響いた。
「凄い音だけど、大丈夫…?」
再生を一時停止し、恐る恐る立ち上がった。
「もしかしたら諌義兄さん…まずい!」
慌てて立ち上がり、ドアを開ける。
何かが饐えたような酸っぱい匂いの蒸気が立ち込める。
「諌さん!」
「義兄さん!」
窓ガラスを通じて入ってくる日の光に触れて薄くはなっているが、大急ぎで換気扇の電源を入れた。
そして、冷蔵庫の側には……
「あれ、ここどこ…?
お姉ちゃん達、もしかして魔物?」
少しぽっちゃりした体型の幼い少年がぺたんと座り込んでいた。
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「おれの名前はみぞろぎ いさむ、10才!」
幼い諌少年は、元気に自己紹介を済ませた。
「私は湊凪、こっちは妹の日和。
私はドッペルゲンガーで日和はリッチ、よろしくね諌くん。」
農薬の影響で諌は身体ばかりか記憶まで少年の頃に巻き戻されてしまっていた。
申し訳なさそうに項垂れる日和、諌が妙に距離をとっている事に気が付いた。
「やっぱり、魔物は怖いのかな…?」
恐る恐る問い掛ける、返答次第では絶望感に襲われるかもしれない。
「人間でも魔物でも、女の人に勝手に近づいたり触ったりしちゃだめ、ってじいちゃんに言われてる。
お巡りさんに捕まることもあるって。」
かぶりを振りながら年齢に似合わぬ紳士な返答、懸念が杞憂だったことも含めてふたりは思い切り安堵した。
「大丈夫だよ、諌君のことは私の彼氏が教えてくれたから。
ほらおいで、3人で横並びになろう。」
諌はソファーの上で凪と日和に挟まれ、アニメを観ながら色々な話を交わした。
尋問というにはあまりにも優しい時間。
大のおじいちゃん子である事や、学者になるために必死に勉強している事など、色々な事をその幼い口から教えてくれた。
しかし、凪の方は普段いるはずの彼氏は出張のためいない、と嘘を伝えなければならなかった。
「さて…お昼ご飯食べよっか。
パン、ハム、チーズ、卵に玉ねぎ…サンドイッチでいい?」
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「ごちそうさまでした。」
サンドイッチで昼食を済ませた3人、諌は小さな体を甲斐甲斐しく動かしながら洗い物を手伝う。
「…やっぱりずるいや。」
最後のコップを食器かごに戻した時、膨れっ面の諌のその言葉に凪は首を傾げた。
「ここに住んでるお兄さん。
釣りも上手い、頭もいい、ナギさんと付き合ってる…羨ましい。」
嫉妬丸出しな拗ねた口調、歳の割にはませたその発言に凪は心の奥が暖かくなるのを確かに感じ取った。
「おれ、ナギさんみたいな綺麗で優しい人と付き合って結婚する!」
相手が未来の自分とは露知らず、自信たっぷりの宣戦布告。
そんな諌を凪は優しく抱きしめた。
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