まず一歩から

週の真ん中、水曜日。
各地の卸売市場が休みとなることの多いこの日、食品業界は比較的落ち着いている。
中堅クラスの食品商社、澤井フーズの事務所もご多分に洩れず静かで平和な…

『うわあああああぁぁぁぁ!』

静かで平和な水曜の午後を引き裂く、野太くも間の抜けた悲鳴。
それを辿って事務所から廊下へひとり、またひとりと飛び出していった。

――――――――――――――――――――――――

「すいませんでしたッッ!」
数十分後、騒動の原因が深々と頭を下げていた。
その名は溝呂木諌(みぞろぎ いさむ)、背はさほど高くはないががっちりした体格、冬になってもまだはっきりと分かる日焼け跡、意思の強そうな顔、短髪の黒髪。
作業服的な要素のある会社支給のダークネイビーのユニフォームを身に纏う、総務部管理課の主任である。

「い、いえ大丈夫です…事前に声をかけなかったのが原因ですし…こっちが悪くて…ごめんなさい。
あ…あの…頭を上げてください。」
諌の謝罪を受け、申し訳なさげに手をぱたぱたさせているのはドッペルゲンガーの湊凪(みなと なぎ)、営業部量販課の課長補佐をやっている。
黒のタイトスカートにライトグレーブラウスとダークグレーのカーディガン、僅かに癖のある濃い栗色のミドルヘアー、ほんのりあどけなさを覚えるくりっとした垂れ目、その瞳は柘榴石のように紅い。

書庫で作業を終えた諌が電灯を消した瞬間、まだ中にいて声を上げた凪の影に驚いて悲鳴を上げた、顔も恐怖心からこれでもかと引き攣らせている――これが騒動の顛末である。
いくら相手と種族が異なるとはいえ先輩に、況や上司に対して礼を欠いた行為であると思い、頭を下げに来ていた。

凪は部下の諌より社歴も1年長いのだが、実は年齢はふたつ下である。
大卒の凪に対して、諌は大学院の博士課程を1年目で中退し澤井フーズに入社している。

「ナギさん、もうちょい強気に出ましょうよ…」
諌が席に戻ったのを見計らい、やや呆れ顔で隣の席の男子社員、千樹瞬(せんじゅ しゅん)が凪に苦言を呈してきた。

「あうぅ…そんなこと言われてもぉ…」
少し強い口調で話す平社員と、それに当惑する課長補佐。
目を泳がせ頬を軽く染めた凪は手元にあったノートで必死に顔を覆っていた。

「まったく…イサミン先輩の事になるといつもこうだ。
そんなにイサミン先輩の事が好きならとっとと告ればいいじゃないすか…。」
瞬の言葉に凪は一切反論する事が出来ない、諌の事が好きであることは誤魔化しようのない事実である。
しかし、その事は直属の部下である瞬以外には口にしておらず、なるべく態度に見せないようにしている。

「溝呂木さんに見合わないよ、わたしビビりだし陰キャだし、休みの日は家で寝てるかゲームばっかだし。」
ぶつぶつとこぼしながら、ものすごい速さでキーボードを叩いて得意先へのメールを完成させて送信ボタンを押した。
入社して5年も経たずして課長補佐の任を受ける凪、驚くほどの大量のタスクを一斉にこなし、取引先が何を求めているかを驚くほど性格に撃ち抜き、海外の取引先を相手にしても複数の言語を巧みに使いこなし、気弱で強引な売り込みが出来ない故、それをカバーするための営業スタイル。
『柔よく剛を制す』を体現するかの如くあれよあれよと数字が伸び、遂にはトップの営業成績を叩き出すほどになっていた。

「だいたい、凪さんはドッペルゲンガーなんだからイサミン先輩の好きな女性に化けてとっとと仕留めりゃいいじゃないすか。」
「そんなのとっくに試したってば…ダメだったけど。」
「……え?」
ドッペルゲンガーとしての変身能力を使い、何度も諌の想い人に化けようと試した事があるが、毎回失敗に終わり、諌の元へと出撃する事は一度もなかった。
見た目の印象は多少変わるが完全に姿を変える事は叶わない、誰が見てもドッペルゲンガーである事は分かるような姿のままである。

「やれやれ、この様子じゃどっかのタイミングで誰かに取られちゃいますよ?
おっと、みんな戻ってきたんでこの辺で。」
2人を除く量販課のメンバーが商品の検品を終えてぞろぞろと事務所へ戻ってきた。
瞬の一言に言い返すタイミングを失くした凪、悶々とした表情をぐっと飲み込み再び仕事に向かい合う事にした。



夕方、少し疲れた凪は廊下をとぼとぼ歩いていた。
普段なら何事もなく捌き切れる量のタスク――それでも並の社員では到底対処できる量ではない――なのだが、雑念というか余計な感情がいちいち入り込み、作業効率をひどく落としていた。
気分転換に自動販売機で甘い飲み物でも買って飲もうと食堂の扉に手を掛け…

『……!!』
諌が管理課のパイロゥ、火野レイカと親しげに話をしている姿が、扉のガラス越し目に入った。

凪は一瞬で頭がぐちゃぐちゃになった
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