紅い眼の魔物

 馬車とはなんと便利な乗り物なのだろうか。
自分の意思で足を前に進めなくても、金さえ払えば自動的に目的地へ向かってくれるのだから。だから耐えるだけでいい、ただ耐えるだけで…。
ラクランは延々と不毛なことを考えていた。なぜか体感の時間は実際よりもやたら長く感じられ、長旅の疲れを一層重たくした。
これから故郷へ帰るというのに、まるで処刑を待っているかのような気分だった。歯の奥ががちがち震える、一体俺は何をそんなに怖がっているんだろう。
忘れなきゃ、そうだあれは、あの少女との生活はただの夢だったんだ、冒険疲れが起した白昼夢だったんだ。
そう思いでもしないとまた俺は弱くなってしまう、祖国と、くだらない感情を天秤にかけなくてはならなくなる。理性ではどちらが重いかわかっているはずなのに、その天秤はなぜか右へ左へグラグラと揺れるばかりでいつまでも納得いく結論を与えてくれない。
そんなことばかり考えていたせいか、ラクランはその異変に気づくのにだいぶ遅れてしまった。
動かない。小窓から見える外の景色が動いていない。
「………馬車……止まってる………」
馬車のドアを開き、ずっと体勢を固定されていたせいでぎしぎし軋む身体をなんとか外へ押し出し地に足をつける。
「おい!おい、どうした!」
ラクランの問いかけも虚しく、御者の返事はない。不自然な静けさに嫌な予感がして、回り込んで御者台を確認する。
「いない………!」
御者が忽然と姿を消していた。ラクランが乗る馬車は、中からは御者が見えないデザインだ。一体いつの間にいなくなったというのか。きちんと信頼できる御者を選んだつもりだ、逃げ出すなんてことあり得るのか?いや、こういうときは…!
「魔物…!」
ラクランも一時は冒険に身を投じていたからこういう時の対応は心得ている。まずは周囲の状況を確認し、その次は…
「空!」
咄嗟に身を伏せると、黒い大きな影が頭上を通り過ぎラクランの衣服の一部をちぎり去っていった。
「あははは!勘がいいねぇ!素敵ィ!」
ひゅう、と滑空した後にばさばさと羽ばたいて高度を調節し、その影は正体を現す。
凛とした顔の、ショートカットの黒髪の美しい女だ、女が、空を舞いながら猛禽を思わせる獰猛な笑みを浮かべ笑っている。
露出度の高い黒い衣装を纏うすらりとした肢体に不釣合いなほど大きな黒い翼ばさばさとはためかせ、脚にある黒光りする鉤爪は獲物を狙ってがばりと開いている、攻撃を緩める気配はない。
「まずい!」
さっきの滑空は目に見えないほどの速さだった、逃走はきっと無意味だ。ラクランは素早く馬車の中に滑り込み扉にロックをかける。
「はぁ…はぁ…ここはもう教国領のはずなのに…なんで魔物が…!」
ラクランはここで旅を終えるわけにはいかない、雑嚢から護身用のナイフを取り出し身構える。
「アハハハハハ!逃げたって無駄だって!」
ぐら、と馬車が傾く、すると漆黒の翼が日光を遮り、馬車の中が真っ暗になった。あの黒翼の魔物が馬車に取り付いたのだ。
ほどなくして、めきめきと嫌な音を立てて大きな鉤爪が馬車からあっけなく扉を剥がし取っていく。
「っは!」
間髪入れずにラクランは黒翼の魔物目掛けてナイフを突き込んだ、だがリーチの長い黒脚で足蹴にされてしまい、有効なダメージを与えられそうにない。
「結構勇敢なんだ…♪…ね、アンタ私の旦那にならない?」
見目麗しい容姿と甘言で惑わすのは狡猾な魔物共の常套手段だ。
「ふざけんな、失せろ!!」
言いながらラクランはナイフを渾身の力で振り抜き脚を袈裟斬りにしようとした、しかしいとも簡単にかわされ、鉤爪で右腕を取られてしまう。
「はい捕まえた♪」
「ちっ…!」
その巨大な鉤爪は大の男の腕だろうが容易く掴み取り、一度食い込んだら決して離さない。
恐ろしいほどの膂力に耐えられず、ラクランはずるずると外に引きずり出されていく。
ラクランは全身全霊で歪んだ馬車の柱を左手で掴んだ。指先が真っ白になるほど柱を強く握りしめる、しかし魔物に神の祝福を受けていない只人が力比べで勝てるはずがない。
「セリア!!!」
空へと攫われていく刹那、ラクランは人形の少女の名を呼んだ。
(俺は志半ばで魔物に食われてしまうのか、さんざん偉そうなこと言っておいて…情けない主で済まなかったな…)







 黒翼の魔物は上機嫌で空を舞っていた。やはり略奪というのは気分がいい。お堅い軍の仕事でもこういうのは性にあってる、その場ですぐに旦那にしちゃいけないのが玉に瑕だが。
次の獲物を探して俯瞰する視界の中に、黒翼の魔物はさっき襲った馬車を見つけた。
そうだ、あの男、確か最後に誰かの名前を呼んでいなかっただろうか。まだ人間が残っているかもしれない。
黒翼の魔物はニヤリと狡猾な笑みを浮かべると、ごう、と急降下して着地し馬車
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