公園と道路を隔てる金網にガシャンと背中をぶつける。ジジ、という街灯の切れかける音と、荒い呼吸だけが夜の町に響く。
自分の考えが甘かった。何度か夜に出歩いても大丈夫だったという経験は、しかしその次も大丈夫、という未来の担保になるわけでは決してなかった。
街でちらほらと見かける魔物娘には必ず連れ合いの男がいて、皆それぞれに幸せそうな顔をしている。だからといって、見ず知らずの女性に襲われるのをよしとするような倫理観を佐伯良助(サエキ リョウスケ)は持ちあわせていなかった。
それに、あの目だ。暗闇に赤く光り、こちらを捕食の対象として見ているような、あの目。あの目つきで追われてしまって逃げ出さない奴はそういないのではないだろうか。しかし。
「追いかけっこは、お〜しまい♪」
高く、甘い声の主の言うとおり、もう逃げ場はなさそうだ。捕食者は悠々と空を浮かびながら、こちらに近づいてくる。
瞬間、自分の後ろで消えていた街灯がパッと点灯し、先ほどまで黒いシルエットだった彼女の姿を詳らかにする。
少女と言っていいような見かけだが、その小さな体には似つかわしくないほどの存在感をひしひしと感じる。その青くなめらかな肌は、黒い革の服によって最低限しか隠されていない。腰から生えた翼と尻尾は、街灯と月の明かりに照らされて艶々と黒く、嗜虐的な喜びを抑えきれないかのように蠢いている。
そこで良助は気づく、黒い部分はそれだけではない、人間の白目に当たる部分、そこが今いるこの時、夜のように黒い。良助はそれを不気味には思わなかった、それよりも、その瞳が情欲に爛々と染まっている事のほうが、今は問題である。
明らかになった姿を見つめるその視線に気づき、少女はくすりと笑う。
「舐めるように見ちゃって……えっち」
「え、あ、ご、ごめんなさい」
くねりと動き、冗談めかして胸を両手で隠す彼女の言葉に良助は反射的に謝ってしまう。
が、彼女はにいと顔を歪ませて、ぱたぱたと羽を動かしながらさらにこちらに近づいてくる。
「だーめ、許してあげない」
「なっ」
ほぼ二人の距離がゼロになる、両手を膝につけ、空中で中腰のような体勢を取った少女は、吐息のかかるくらいにまで顔を近づけて言った。
「エッチな目で見た責任とって?私のものになってもらうから」
今から逃げることはほぼ不可能といっていいだろう。脳をじくじくと犯すような声にぞわりと肌を粟立てながら、良助が「お……」と声を出す。「お?」と小首を傾げながら、少女が続きを促す。
「お?」
「お……」
「うん」
長くためらった後、良助が言ったその言葉は。
「お友達からなら……」
という、なんとも日和ったものだった。
◆ ◆ ◆
スーパーから帰る道すがら、明るく日に照らされている公園を良助は複雑な心境で見つめていた。
昼間の公園は遊具で遊ぶ子供たちや、赤ちゃんをベビーカーに乗せて井戸端話に興じるお母さん方で賑わっている。その平穏な風景を見ると、昨夜の出来事が夢か何かであったかのように良助には思えた。
右手を顔の高さまで掲げてまじまじと見つめる。金網にぶつけてできたはずの切り傷が今やすっかり治っている事も、その感覚を助長していた。
「よく無事に帰ってこれたな……」
どこか他人事のように良助は呟く。
昨日の夜、良助の言った先延ばしの言葉を少女はあっさりと却下した。
『だめ。お友達じゃ満足できない』
『いや、まずはお互いのことをよく知ってからでも、遅くはないというか、ねえ?』
『名前はエウリカ・ニジェルカ。種族はデビル。好きな色は紺色。好きな男性のタイプはあなた』
エウリカが良助にすり寄り、ほぼ密着した状態で二人は言葉を交わす。矢継ぎ早に自己紹介を終わらせたエウリカに、どうにか話を逸らせないものかと良助も言葉を返す。
『えっと、俺の名前は佐伯良助です。歳は十七歳で好きな食べ物はシチュー。いやあ、シチューのCMでブロッコリー入ったりしてますけど、あれってどうなんですかね?ブロッコリーってどうやってもそんなに美味しくならないから苦手なんですよね。苦手と言えば、古代中国の周の国の王様がこう言ったそうな……』
『いっただっきまーす♪』
『そういっただっきまーす♪バカバカ城燃えてるのにってわー!ちょっと待って!』
ごそごそと股間をまさぐりだしたエウリカの肩を良助はぐっと押す。煩わしげにその手を掴んでどけようとしたエウリカだったが、彼の右手を見て顔色が変わった。
『けが……』
『へ?』
彼女の視線を追うと、自分の右手からぽたぽたと血が滴っていた。追い詰められた時、金網のどこかで切ったのだろうか。傷を自覚した瞬間、じくじくとした痛みを脳が感知する。
『ご、ごめんね。痛いよね』
『あ、いや、そんなに。大丈夫ですよ』
『ごめんね
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