咄嗟に体を起こしても、何も見えない暗闇の中。それでも、さっきの夢より幾分マシだった。目を凝らせば遠くに穴があり、そこから僅かに光と風が差し込んでいる。ここは私……デフ渓谷の怪物が潜む洞窟だ。
ひんやりとした洞窟の岩肌が、さっき見た悪夢から解放された私を歓迎する。安心しきってついまた寝そうになるのを我慢しながら、眠気覚ましに毛並みを整えたり蛇腹を動かしたりしてみる。
私はバニップという種族であるということを知ったのは、幼い頃に浴びせられた心無い言葉だった。ラミアのような体をしていながら上半身から背中にかけて獣人のようにもっふりしていて、その珍しい特徴からよく爪はじきものにされた。
私の他に全く同じ特徴を持つ仲間に出会ったことはない。人間からは当然、ラミア属の魔物でさえ、何が気に入らないのか私を嫌った。石を投げられたり突然泣き出して逃げられたり。その反応はまるで怪物を前にしたようだった。
でもまあ、いいのだ。皆が私を嫌い恐れるなら、私は一人でいい。そう思ってこの渓谷付近に留まって幾年が経っただろう。岩場がゴツゴツとあって流れも早く元々人が多く来る場所ではなかったけれど、私が住み着いて数年が経つとめっきり人を見なくなった。それどころか魔物の姿さえも。
デフ渓谷の怪物の噂を耳にしたのは、何がきっかけだっただろう。もう思い出せないけれど、その怪物が私のことだというのは聴いていてすぐにわかった。食料を取りに行くところでも見られたのだろう。その噂のおかげで私は一人悠々自適に暮らせていると知り、帰ってちょっとだけ泣いた。悪夢のネタには事欠かない。
洞窟から出て日の光を浴び、グンと背伸びをする。ここは魔界にはない心地よさがあって好きだ。でもこの先これ以上暑くなると思うと、嫌な思い出が蘇る。“毛むくじゃらが暑苦しいのよ!”なんて。本当に小さい時に言われた言葉が今もこうして胸を抉る。一度毛をできる限り剃ってみたことがあるけれど、その時は恥ずかしくてとても外に出られたものじゃなかった。
別にそんな思い出を洗い流してくれるわけでもないけど水に飛び込む。いつものルートを行けば、様々な種類の魚が慌ただしそうに泳いでいるのが見える。私ほどの巨体が入って余りある程に底は深く、人の身であれば落ちたらひとたまりもないだろう。
コブのような岩を目印に顔を出すと……いた。青っぽい服を着た青年が釣りをしている。ここ数か月の晴れの日はずっとあの調子だ。側のカゴには既にいくつか魚が入っていて、この調子なら今日も大漁だろう。それにしても怪物が出るという噂の場所に毎日わざわざ来るなんて。確かに人も魔物もいない穴場ではあるけど、怖くはないのだろうか?
彼のたくましい腕が釣り竿を振る。優しそうな顔に澄んだ瞳が綺麗。ダメだ。これ以上見ていると襲ってしまいそうで、慌てて水の中へ潜り込む。もし襲いかかってしまえば……いや、私の姿を見ただけでもきっと、彼は怖がって二度とここへは来なくなるだろう。私が見たいのは彼の笑顔であって、恐怖にひきつらせた顔じゃない。
魚を釣り上げる彼を見ながら、この間ほんの少しだけ話した時のことを思い返す。天の声と称して、面と向かってではなかったけれど、あれは幸せなひと時だった。彼が竿を落として、私がそれを拾って。帰り道の彼の晴れやかな顔が眩しくて……。
今日はもう十分だ。帰ろう。そう自分に言い聞かせているにもかかわらず、身体は素直に帰ろうとしない。もうちょっと。もうちょっとだけここにいたい。あの腕に抱かれたら、あの手で撫でられたら、あの体を抱きすくめられたならどんなに幸せだろう。
ほんの一回、ちょっとした言葉を交わしただけなのに、どうしてあの人のことがこんなにも……好きなのだろう。
「……好き」
ちょっと言ってみただけ。ホントに小さな声だったのに、彼がこっちに振り向いた。反射的に私は水の中に飛び込んで身を隠す。まさか聞こえてた? そんなはずは……。
胸の鼓動が早くなる。今にも爆発しそうなほどに。彼とおしゃべりしたい。お出かけしたい。お食事したい……襲いたい。
衝動を振り払うべく、水の中をデタラメに泳ぎ回る。底に頭をぶつけたりして落ち着いたかと思うとふっと彼の顔がよぎって、また衝動が走り出す。せめて声をかけたい。でも嫌われるのは怖い。それに今の調子だとうまく話せず欲求のままに襲いかかってしまうから。こういう時は嫌な記憶を呼び起こして強制的にクールダウンさせるに限る。
恐い。私を怖がる人間が恐い。
恐い。私を忌み嫌う魔物が恐い。
恐い。こわがられるのが、恐い。
恐がられたって死ぬ訳じゃない。終わりじゃない。それはわかってる。終わらないからこそ、こわい。
私の中で恐怖と思慕がせめぎ合う。彼の顔を見る度に心が躍
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