前編『涙雨降る唐傘の下』

 立ち込める霧、しとしとと降る雨。側に流れる川は水位と勢いを増しつつあって、そろそろこの橋の下からどこかへ行かなきゃと私は思った。
 身に着けているものと言えば、頭の巨大な、先の割れた舌が付いた笠と濡れて身体にはっつく布みたいな服が一枚、あと一本足の下駄。どうしてこれだけしか身に着けていないのだろう。どうして私はこの橋の下で目が覚めたのだろう。わからない。
 それにしても、寒い。吹き込む風が濡れた私の身体を冷やしていく。ここにはいられない。どこか風のしのげるところを探さないと……身体を温められるところ……温もりが欲しい……。
 橋の下を出て、土手を上がった矢先。一気に雨足が強くなる。私は頭の笠があるおかげであまり関係ないけど、道行く人間達は道を急いでいる。中には傘を持っておらず頭を抱えて走っていく男もいる。出来れば私の笠に入れてあげたかったけど、声をかける間もなく過ぎていってしまった。
 もう通りにはほとんど人はいない。胸をなでおろし、どこか雨宿りにいいところはないかと歩き回る。でもなぜか、他の誰かがいるような所は嫌だった。出来れば誰もいない所。いても私の同類がいい。それに、突然こんな格好の女が来たら迎える方も驚くだろう。
「おいおい、なんだぁこりゃあ? すげえ勢いで降ってんじゃねぇか。まいったな傘がねぇや」
 荒っぽい声の方を見れば、無精髭を生やした大柄の男が茶屋から出てきていた。その後ろには……狸? 狸のような人間がいる。
「旦那はん、傘持ってきてへんかったんやね。ウチの使う?」
「ああ、わりぃな。抜いてもらった上に傘まで……次はあの羊の子も」
「かまへんよ。どうぞ今後もごひいきに」
 男が蛇の目傘をさしてこっちへ歩いてくるのを見て、私は咄嗟に影へ身を隠した。どうしてかは分からない。でも、身体が勝手に動いてしまった。
「しっかし、こんなに降るとはなぁ。ちょっと破けたくらいで捨てるんじゃなかったか」
 男が前を通り過ぎる。私には気づかない。ただ、私は彼の言葉に驚愕していた。まさかと思う。もしかしてあの人――気になって少し顔を出す。あの男がこれから何をするか、知る必要がある。私はそうしなければならない。 
「そういや、この辺だったっけかぁ?」
 さっきまで私がいた橋に目をやった。間違いない。彼だ。私は彼の傘だった。――ああ、そうだ。私は、彼に捨てられたんだった。
 雷に打たれたかのような衝撃。フラフラと吸い寄せられるように彼へと向かう足。そう。私は貴方の傘。この姿になったのは貴方を探すため。
「でもま、おかげでこんな上等な傘貰っちまったんだ。全く運がいいぜ」
 ピタッ……と足が止まった。彼の言葉が私の胸を切り刻んでボロボロにして、もう一歩も動けない。私は、完全に捨てられた。小さくなっていく彼の背中。その背中に、私はもやもやとした気持ちを抱かずにはいられなかった。そうして気づく。私は、人間が嫌いだということに。

 橋の下に戻ると、もう川の水位は足首まで来ていた。もういい。このまま濁流に呑まれて、どこまでも流れていきたい。そうすればこのもやもやした気持ちも綺麗さっぱり流してくれるかもしれない。あるいはこの身をさらって、激しく、もみくちゃにしてほしい。その結果この命が消えても構わない。もともと私は捨てられた傘。どうなろうと構わない。
 しかし、それは叶わなかった。雨の勢いが弱まって、水位はそれ以上増すことはなかった。まるで同情してくれるかのように、一緒に泣いてくれるかのように静かに雨が降りだした。でも、違う。私が望んでるのはそうじゃない。この身を打ち据えるような、暴力のような雨が欲しい。なのに、どうして……。
「あら? どうしたの? こんなところで」
 声のする方に目をやると、びしょ濡れの美しい人が微笑んで私を見ていた。白い肌に着物がはっついて透けている。この人は、雨宿りに来たのだろうか?
「隣、いいかしら?」
 私の姿に驚くこともなくスススと隣に来るその人は、なんだかやけに透き通って見える。足首辺りまで水は溢れているというのに、彼女はものともせず座って肩を寄せてくる。
「冷たっ」
「あぁ、ごめんなさいね。この身体、温まるのに時間がかかるの」
 優しい語り口。この人は他の人間にはないものがある。いや、他の人間にあるものがない? どっちにしても、この人は一体――
「私は“ぬれおなご”のキウ。あなたは?」
 そうか。このヒトは同類。人ならざる者なんだ。違和感の正体がわかり、私はキウさんを拒む理由はない。大きな舌で彼女の肩を抱き寄せて口を開く。
「私は傘。名前……名前はないの」
「そうなの?」
 頷くとキウさんは何か悟ってくれたようで、優しい笑みのまま柔らかい腕を私の身体に回してくれた。冷たいはずなのに、何故だかとっても温かい。落ち着く
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