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落ちてしまえばそれはもう元に戻らない。それは卵を落としたことがある人ならわかるだろう。殻が砕けてしまえば飛び出すのは中身だ。どろどろの、粘性のある中身。だからと言って過剰に落とすことを心配しても、それは羹に懲りて膾を吹く様なものなので誰も気にしない。
だけどここでは違う。この狂った世界ではその卵に注意し過ぎて決して損をする、なんてことはない。卵の中からあいつはやってくる。
僕がこの世界に落ちてきてから、丸々一日が経過しているけれど、我ながらよく理性を保てていることがわかる。聞こえて来るのは姦しい声と嬌声、視界に入るのは裸体、茸、紅茶に蜂蜜、シルクハットにトランプ。
落下してきて直後に僕に話しかけてきた猫は言っていた。ここは不思議の国だと。最初はその猫についている耳も尻尾も飾りと思っていたのに、それを信じるしかなくなってしまった。僕以外の男が落下してきたと思ったら、その上に重なり合うように卵が降ってきた。卵なのだから、中身がある。その中身が人外の化け物だとしたら、それはもう信じるしかない。
ただ、信じてはいても、僕はこの世界にいるつもりはさらさらなかった。早く帰らなくちゃ家族がきっと心配するだろう。
だから猫に案内を頼んで出口までの道のりをせっせと歩いている真っ最中だけど。
「それにしても本当に帰りたいのかにゃあ?」
「うん。家族が心配するからね。そのハートの女王様に頼めば、元の世界へ帰れるんだろ?」
「たぶんにゃ」
「よかった。光明だよ」
「そうかにゃ。まあ、私自身自分を巧妙だとは思うにゃあ」
時々会話のずれを感じるのは、この世界が不思議の国だからだろうか。子どもの頃にアニメで大よそのあらすじを知ったけれど、確か原作は凄く言葉遊びの技巧を凝らした作品だと小耳に挟んだことがある。だとしたら、まさに今僕はその世界の一端と同化していることになる。文学人からすれば、血の涙を流して羨ましがるかもしれない。
それでも。
「いささか退廃に過ぎるとは思うけどね」
けれどそれはとても――
「にゃ?」
蠱惑的でも、ある。
「あ、ごめん、こっちの話だよ」
首を傾げるだけで、猫はまた前を向いて歩きだした。道中色々と説明をされ、その一つ一つが実に淫靡で退廃的なものだと知ってしまうと、多少なりともげんなりとせざるをえない。
自然物でも人工物でも、もちろん不思議の国の住人であっても。子どもが仕掛けた悪戯の方がまだ可愛げがあるようなものだ。
例えばすぐ傍を流れている紅茶の川。一口啜れば甘美な芳香が広がり、至福のひと時を味わえるそうだ。ただし時間が経つと視界に変化が出てくる。見るものすべてが帽子屋に見えてしまうそうで、最後にはふらふらと自分から紅茶の川に飛び込んでしまう。そして待ち構えているのは帽子屋。つまるところ一口でも口にした時点で帽子屋の番になるしかない。
空から降る飴にしたって雨にしたって。その味を知れば次第に身体は疼き女なら不思議の国の住人に、男は見境なく女を襲うほどの媚薬。身体を濡らせばその匂いでたちどころに住人たちに囲まれる。
ぞっとする話だった。
その中でも一番僕が興味をひかれ、そして同時に恐ろしく思ったのは卵だった。空から降る卵。その中身は、スライムのような魔物。割れると同時に目に入った男をすぐに夫と認識して性交を図るのだそうだ。ちょうど、親ガモと小ガモの関係に似ている。もっとも鴨の親子はそこまで淫靡な関係ではないが。
「そう言えばまだ名前を聞いてなかったけど、君の名前は?」
「チェシャ猫にゃ。名前はまだにゃい」
「チェシャ猫って名前じゃねえか」
それでもこの猫に付いて行ってると比較的安全な道程が保障されるのは安心できた。何より機知に富んだ話し相手というのはそれだけで退屈しない。もはや道端で男女がまぐわっているのを見るのに慣れてしまった(感覚が麻痺してしまったとも言う)僕は、若干退屈を催していたところだ。それを適度に紛らわしてくれる存在というのは、とてもありがたいものだった。それを油断と言い切ってしまうと、そこまでだが。
「それにしてもこれだけの光景を見て、性欲を持て余したりはしないのかにゃ?」
「しないね」
嘘だ。どだい僕が理性的な人間だとしても、本能に準ずる欲求を堪えられるはずもない。だけど、抑えられはするしそれを悟られるつもりは毛頭ない。
「じゃあ帰ったら愛しい娘を襲うとかそういうこともないのかにゃ」
「ないね」
「勿体無いにゃあ。有名な歌の歌詞には、ヤりたい娘とヤったもん勝ち、なんて歌詞もあるくらいにゃのに」
「子ども忍者が奮闘する話って、そこまで淫靡なものだったっけ?」
というか、なんで違う世界の歌を知ってる。迷い込んだ別の人が伝えたのだろうか。
くだらない話
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