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アプサラスという魔物がいる。古より愛の女神が生み出した精霊であり、その姿は砂漠都市の踊り子を思わせる官能的な身体つきをしており、アプサラスの踊りを見て理性をかなぐり捨てずに済む者は少ないと実しやかに噂されている。またその特殊な立場から、勇者や聖職者の試練としてアプサラスと向き合い、己が性愛を抑えることに利用される事も度々である。
事実、この話の主人公たるニヒトもある教団の勇者であり、この試練を乗り越えた猛者である。若さと性欲の強さは比例するものではあるが、しかしてニヒトはその魅惑的な踊りで揺れる母性の象徴の如き乳房や、健康的なニヒトには眩しすぎるほどに輝かしく映る太腿、そしてさぞかしいい子を産めるであろうと下世話な妄想逞しくせざるを得ぬ臀部。
どうして男に生まれ、このような生殺しに近い試練を受けねばならぬのかと半ば本気で思いながらも、ニヒトは必死にその誘惑の踊りを耐え抜いた――までは良かった。
教団の誤算があったのはアプサラスに対してだけでなく、魔物娘全般に対してであり、その誤解を何たることかと叱責するのは容易いが、人が簡単に思い込んだ常識を外すことは困難を極めることは、これまで人が歩んだ歴史から見ても瞭然であり、教団を簡単に責めることは難しい。
いや魔物娘に限らず、色恋沙汰の本質というものを誰もが経験するまでは未知の領域に踏み込む前の準備を怠らぬように何度も入念な確認をするのを、時間と経験が油断を慢心を生み出してしまうように。
色恋沙汰を甘く見る者は、必ず痛い目を見る。
――嗚呼、なんて素敵な人!
そう思いながら積極的に踊るアプサラスのネーナの瞳が、熱情に染まりきっていたのをニヒトが少しでも見抜く術を会得していたならば、なんとかこれから起こる事件を回避――出来はしなかっただろう。たとえ欲と穢れをその身から十全に隔絶した仙人の如き清らかさと崇高さがあったとしても、逃れられはしないし、逃がしてはくれまい。
恋する乙女ですら男はたじろぐというのに、恋する魔物娘であれば何者がその手から逃れようものか。
――あんなに目をギラつかせながら、必死に耐えて!
しかも、その恋の歩度を速める一因がニヒトにあったとすれば、それはもう擁護のしようのないものである。
魔物娘とて種族でわけられ、その種族によっても大体の性癖や性格を区分できるがもっと根本的な問題として、生き物である以上そこに個性は存在する。
ニヒトの前で誘惑の踊りを踊ったアプサラスはどうやら、必死にそれに耐えるニヒトに対して過保護欲をそそられる性らしく、生唾を飲み込む様だとか、必死にかぶりを振る姿だとかを見ながら己の中に情欲の火が盛るのを自覚していた。ならば遠慮する必要もなく、己の魅力的な肢体を存分に生かし、この場でニヒトを自分のものにしてしまおうと考えつくのは自然極まりないことであり、何一つとして不自然なものはない。
が、常に魔物娘の思惑通りになるかと言えば世の中、人生山もあれば谷もあるのは人も魔物娘も変わりない。アプサラス自身、全力でニヒトを堕落せしめんとかかったが、ニヒトもニヒトで全力で誘惑に耐えんとした結果、軍配はニヒトの方へあがってしまった。
無事試練を乗り越えたニヒトはこれ幸いと、早くこの濃密な淫気の滞留する空間から駆け足で抜け出したのだが、不満たらたらなのはアプサラスのネーナである。
その不満の表現こそ、頬を膨らませるという美麗な容姿からは少々不釣り合いな――しかしながらそれはそれで興を感じさせる――ものではあったが、内心では地団駄を踏み、んもぅ!と声を荒げていた。
――どうしてどうして!あなただって抱きたいと思ったでしょうに!
しかし帰ってくる返事を言うはずのニヒトは既にいなくなり、ネーナの肌には踊りでかいた珠のような汗が伝うのみ。不快ではないが、ニヒトがいなくなったせいかその感覚はどこか歯痒くもどかしいものであり、ネーナの胸中を曇り空にせしめた。
ここでこの話が終わるようなことがあれば、ニヒトは試練を乗り越えた者として教団の掲げる勇者の育成教材の話の一例にでもなり、やれニヒトのような禁欲さを以てアプサラスの誘惑を耐え忍ぶべく云々となっただろうが、そうならないのは無論ここで転んだまま終わるはずもないネーナだからである。
具体的に言えば。
「なあ、俺試練には耐えたよな?無事一兵卒から勇者になれたし、自分の部屋も持てた」
そう独り言ち、やや狭いと感じながらも部屋の中を見渡すのはニヒトのために設えられたと見える。工業品的な量産物は見えず、机や寝具ですらよくよく目を凝らせば職人の技が活かされているのが見て取れる。常に男の汗の臭いが充満していた集団生活を基本とする部屋から解放されただけでも感無量ではあったし、これから自分が勇者として頼られる事にニヒトも男であ
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