前篇 裏

9

 これはあくまで私の物語ではなく、彼の物語です。私は言うなればきっと、台所の隅にある消臭剤のような存在でしょう。そもそものきっかけは、本当にただの偶然でした。私の種族――ドッペルゲンガーという種族――はあまりほめられた性質を持ってはいません。他人の記憶を覗き見て、垣間見てその想い人に化ける。それはある意味盗人にも近いものでした。他の子たちはみんな自分自身の姿で想い人の心を射止めているのに、私だけは他人の姿になりすまして近づくことが、どうもフェアではないというか、気恥ずかしく思えました。自分の本来の姿を見られるわけでもないのに気恥ずかしいとは、いかに。ですが、それもきっと言葉にできない根っこの部分の感情であろうことは想像に難くなく、私はそこについては理解することを止めていました。
 おそらく私は一人ぼっちなのだろう。魔物にしては珍しく、一生一人ぼっちなのだろう。なんとなくそんな気がして、しょんぼりとしていた時のことでした。
 私はうっかり誰かにぶつかってしまい、すってんころりとそれはもう漫画のごとく転がってしまいました。誰の目にも明らかな私の非だったので、慌てて謝らなくちゃと痛みに喚く身体に鞭うって起き上がろうとした時です。

「大丈夫?」

 やさしい、やさしい声でした。
 まさか謝ろうとした矢先にこちらの心配をされるとは思ってもいなかった私は、完全な不意打ちを食らってしまったせいか、「あ、はい」としか答えることができませんでした。さぞかし心配してくれた男性は間抜けな顔をしているなあと思ったことでしょう。でも、そんな私にも等しく慈悲を浴びせるように、彼は手を差し伸べてくれました。
 あたたかくて、少しだけ皮膚の堅い、でも柔らかい男の人の手でした。恥ずかしい話、異性の手を取ったのはこれが初体験で、それはとても感慨深く私の中に刻まれました。
 ともあれ、そんなことに惚けている場合ではありません。お礼の一つでも言わなくちゃ。そう思ってありがとうを言いかけた瞬間、それに被せるように男性は言葉を発し、私の身を心配した後にさっさと立ち去ってしまいました。
 せめて、お礼くらいちゃんとしたい。
 きっと最初はそんな純然たる気持ちだったはずです。私は咄嗟に立ち去った男性の後を追いかけました。必死になって追いかけるうちに、これはなんだか世間一般でいうところのストーカーというものではないのかと疑問が浮かばないわけではありませんでしたが、たとえそう勘違いされてでも、きちんとしたお礼はしたいです。
 まだそう遠くには行ってないはずと思い、力の限り走りました。年端もいかぬ少女の全力ダッシュは外から見ればとても微笑ましいものか、もしくは奇異なる目で見られているかのどちらかでしょうが、そんなことにいちいち構う余裕はありませんでした。
 必死に走って、なんとか彼の後姿を捉ました。やった!そう浮かれたのがいけなかったのでしょう。私は小石に躓いて本日二度目の地表との挨拶を交わしました。
 大丈夫だろうかと周囲の視線が刺さりますが、そんなことは関係ありません。私は勇ましく立ち上がると、すぐさま駆け足で彼を追いました。
 ですが、嗚呼、なんと神様もとい堕落神様は意地悪なことか!
 彼はタクシーに乗るとどこかへと消えていってしまいました。私は当然、声が出る限り、力の限り若さの限り叫んでみたのですが、それが届くことはありませんでした。
 もっともそれは――声の話です。
 幼気な少女、謎の奇声をあげる図を目の当たりにした一般人の方々のどよめきはよそに、私はあることに集中していました。
 ここであくまで補足しておくなら、この時の私に恣意はありませんでした。本当にこのまま何も言えずに別れるのが嫌だった、さながら子どものような感情に従った結果です。
 私は、あの男性の記憶を読み取っていました。
 なんと愚かな。
 なんと愚鈍な。
 なんとなく自分を卑下して、コンプレックスのように思い避けていた己が異能を、気づけば私は使っていました。
 あっ、と我に返ったときにはすでに遅く、私の頭には彼の記憶が、ありとあらゆる記憶がプライベートの欠片もないほどに完璧に流れ込んでいました。奔流のように、しかし見落とす場所はないくらい完全に隈なく読み取った記憶から、私は彼のことを知りました。
 青春小説のような失恋で空いた、どこか日常に煩わしさを感じる心の隙間も知りました。目的を見失って渇いてしまったあげく、現在進行形で色褪せている心の悲鳴も知りました。それらを垣間見、読み取って知った私の中にはある気持ちがありました。母親の羊水の中にいる感覚に近い安堵を、傍にいて支え、触れ合うぬくもりを与えたいと。
 そう思うようになりました。
 その気持ちの名前を恋だと知ることに時間など大して必要ではありま
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