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その日僕はなぜか、猛烈におにぎりが食べたくなっていた。普段、断固として朝食は米よりもパンを貫く主義である僕がどうしておにぎりが食べたくなったのか、その原因はさっぱりわからない。しかし、その不可避の衝動に駆られて朝一で愛機のロードレーサーに跨り、近場のコンビニに行ったことは無駄ではなかった。
美雪さんがいたのだ。
大和撫子という単語がそのまま擬人化したような容姿は本人にその気がなくとも、周囲の男性の注目を集めてしまう。それはコンビニであろうと例外ではなかった。店内にいたタンクトップのいかついおっさんであろうと、不健康そうな面構えをした店員であろうと、その容姿を横目で追っていた。無論僕もだった。
だがこの中で僕は彼らよりもイニシアチブは上にある。
こちらに気づいた美雪さんは少しだけ微笑むと、こちらに歩み寄ってきた。どくんと一際強く心臓が鳴り、自然と背筋が伸びる。
「おはよう。浅原君」
「おはよう、美雪さん」
朝の挨拶をいつものように交わして、僕らはコンビニを出る。ちなみにちゃんと商品は買っておいた。商品を買わずに店を出るのは、その店に対する冒涜に他ならないので当然だ。紅しゃけおにぎり、一つ百円だった。
それだけで懐中に大打撃を受けた僕は一足早い木枯らしをその身で味わった。
「珍しいね」
「ん?」
コンビニ前で手っ取り早く朝食を終え、特にやることもなくなった僕らは雑談に興じていた。ささやかな交流だ。僕が少しだけ優越感を得られる、実にちっぽけな時間。だがこの時間のおかげで僕の心は平穏を保てているのかもしれない。そう考えるとちっぽけな時間でも馬鹿には決してできなかった。
何より、美雪さんは美人だ。
「裏腹君はパン派じゃなかったっけ」
「浅原だよ。なぜか今日は無性におにぎりが食べたくなったんだ。美雪さんはないの?こう、なぜかある物が凄く食べたくなる瞬間って」
「私はあまりないかな」
「そっか」とだけ返して、僕はそのまま黙る。視線はどこへうろつかせるでもなく、自然と美雪さんの方へ吸い込まれてしまっていた。綺麗、と思うと同時に、不思議な人だとも感じた。
美雪さんと出会ったのは春、マンションに僕が引っ越した時だった。少しばかり――いや、どれだけお世辞に言っても小さいマンションだったけれど、そのぶん家賃は安くて僕としては理想的な物件だった。それなりの設備は整い、それなりに立地もいい。まずまずのものだ。とりあえずは、お隣さんくらいには挨拶をしておこうと思い、僕は数少ない部屋のドアを叩いて、絶句した。
目の前に立っているのが、瞬きすることすら躊躇われる美女だったらそれは当然だ。息をするのも忘れて、一秒でも長くその目に姿を焼き付けておこうとするのが常人の反応だ。まして、目の前にいる人が昔好きだった人であれば。
だが、しかし――彼女は。
2
僕がまだ馬鹿をやっていた高校時代のこと。
クラスに一人の女子がいた。
名前を狐火美雪と言って、たおやかな子だった。大人しく慎ましく、活発に動いている姿をめったに目にすることがない、月見草みたいな女子だった。月の光を浴びればさぞかし映えるのだろうと、当時の僕はそんなことを考えながらも彼女に対して何らかのアプローチをすることは決してなかった。
生意気なくせしてこういう色事には奥手というか、臆病だったせいも勿論あるがそれよりも、彼女には触れてはならないと思い込んでいたのが一番の要因だ。
儚さを表す修辞は数えきれないほどあるが、そのどれをとっても表現できない何かが彼女にはあった。無理矢理にでも言葉にするなら、粉雪が一番近いだろうか。
触れれば体温ですぐに消えてしまう粉雪。
もどかしさも危うさも儚さも美しさも内包した存在が、彼女だった。
センチメンタルにもほどがあるが、当時の僕は本気でそう思っていたのだから仕方が無い。結局僕は青春時代、ぼんやりと彼女を見つめてそれなりに恋心を抱きつつ、叶うことなく一人自己完結の恋を終わらせると同時に最盛期に終止符を打った。それからぼんやりと流れるように大学を過ごし、流れるように就職が決定してからも頭の隅にはなぜか彼女の影があった。いつまで時が経過しようともセピア色に褪せることがなく、僕は自分が高校時代に閉じ込められているような気分を味わっていた。
女々しいことこの上ない。
さて、社会人になった以上は職場に合わせて住処も変えなければならない。それが遠方ならなおさらで、そうした引っ越し先の挨拶で、彼女と出会った。再開した。
しばらく言葉を失い、はっと我に返った僕は慌てて挨拶をしようとしたのだが、それを遮る形で彼女は
「あ、久しぶり、浅原君」
そう言った。
それだけで僕は(社会人にもなって)砂糖を胸に詰め込まれた気持ちにな
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