稲荷なり

「ん……」

 まだ朝靄も完全には晴れていない時刻、女は目を覚ました。衣類は身に着けておらず、その絹糸のような滑らかさの肌に、柔らかい布団の感触が直に伝わる。自分を優しく包み込むその抱擁にも似た安堵感から、もう少しだけ心地いい微睡みに沈んでいたい欲求が、女の中で芽生えるが、それを必死に振り払い、女は身体を起こした。春とはいえ、まだ朝は肌寒く、少し冷え切った空気が女の肌を撫でた。
 まだ起きない方がよかったのではないか?そう囁く怠惰な心に鞭打って、女はそっと布団から抜け出した。隣には、愛すべき男がまだすやすやと幼子のように眠っている。
 すでに契りを交わし、お互いに夫婦となってからは、女は毎晩愛しい男の腕のなかに収まる悦びを味わっている。昨夜も情熱的にまぐわい、何度子宮に熱い精を注ぎ込まれ、果てたかわからない。まだ己が身体を両腕で抱きしめれば、情交の余熱が心を火照らせているようで、思わず女は身震いした。

「……ふぅ」

 和服をきっちりと着こなし、物音を立てずに部屋を抜け出すと、女は洗面台の前に立った。鏡に映し出される自分の姿は、まだしつこく淫靡な炎に炙られているようで、しまらない顔をしていた。
 そんな顔でも、あの人は愛しいと囁いてくれるのだろうか。ふと脳内をよぎった想像に、必ず返してくれるだろうと、独り呟きながら、女は乱れた髪を櫛で直し始めた。
 頭部に生えた特徴的な耳に、自分の背後でゆらゆらと陽炎のように揺らめく尻尾。
 稲荷という、人ではない、人外の身である自分を好いてくれた男の朝食を作るべく、女は一人台所へ向かった。
 包丁が食材を刻み、小気味良い音を響かせ、台所を少しずつ食欲をそそる芳しい匂いが満たしていく。味も夫好みに拵え、納得のいく出来に仕上がった料理を食べさせるべく、部屋へと向かおうとした女だったが、台所にはいつの間にか、すでに男がいた。

「あら、いつの間に起きていたのですか……?」
「ついさっきだよ。美味しそうな匂いがしたから」
「もう……」

 男の寝ぼけ眼を見るという、自身の密かな楽しみの一つを奪われた気分になった女は、不満げに頬を膨らませた。その少女のような仕草に、男は微笑みながら、ごめんごめんと上辺だけの謝罪をする。
 無論、それで男も妻の不機嫌が改善されるとは思ってはいなかった。拗ねてしまった女の機嫌を直すのは、

「んっ……」

 口づけと、男は何よりわかっていた。
 心の底から添い遂げると誓った女の背中に手を回すと、やや強引に己の唇を重ねる。柔らかく、まさに女そのものである感触に、男の胸の中が多幸感で満たされる。口づけ一つでこれなのだから、ここからさらに進んでしまえばどうなるのだろうか。
 まだ朝だが、荒波を立て始めた己の性欲に、半ば苦笑いしたい気分になりながら、男は舌を女の口中に挿し入れた。途端、それを待ちわびていた女の舌が、男の舌を搦めとり、唾液を塗りたくる。
 何度も何度も、所有物であるのを証明するように。
 このまま朝の情事に耽りたい。そんな素直な欲求が男の中で鎌首をもたげたが、女は男の身体をゆっくりと引きはがすと、首を横に振った。

「いけません。ご飯が冷えてしまいますから……」

 そうは言いながらも、女の目にも確かな情欲の火が灯っているのを男は見逃さなかった。どれだけ表向きには平静を装おうとしても、魔物娘としての性には逆らえない。どうしようもなく火照り、世界でただ一人の愛しい人のぬくもりを求めてしまうその性。
 じりじりと身を炙られるような焦燥感と、夫の前では貞淑に振舞おうとするその二つの感情に板挟みになり、悶絶しそうになりながらも女は努めて表層にはそれを出そうとはしていなかった。
 が、それを自分の知らぬ内に漏らしているのは、長年寄り添っていた男ならば手に取るようにわかるもので。

「大丈夫。時間はかけないから」
「あっ……」

 右手で女を再び抱き寄せ、左手で美しい曲線美を描く尻に手を回す。それだけで、女は頬を染め、やや拗ねたような、非難するような複雑な視線を男に寄越した。だめと言っているのに、そう言いたげだったが、その表情が覗いたのも一瞬のことだった。
 すぐに自分から情熱的に唇をねだり、その豊満な身体を男に押し付けていた。一度火がついてしまえば、止められない。それをわかっていても抑えていた理性が崩れ去った瞬間だった。

「んっ、んんんっ、んむっ」

 短く声を漏らしながら、必死にキスをするその姿はどこか生娘のように初々しくも、手慣れた娼婦のような妖しさも纏い、結果としてそれだけで男の本能を燻らせる官能的なものになっていた。
 愛から愛までひっきりなしに循環する熱が、二人の理性を脳髄を焦がして視界を眩ませる。
 柔らかな唇が触れ合う感触にいちいち、びくっ、と可愛らしく身体
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