これから始まる

 弓道という言葉が持つイメージとしては、詳しくない者であれば、荘厳であるとか、荘重であるとか、粛然であるとか、そんなステレオタイプな偏見で固められたものであるだろう。だが、弓道部部長の東雲春賀が弓道に対して抱いていたイメージはそのどれでもなかった。彼女が抱いていた、弓道へのイメージは『陰惨』だった。およそ、弓道の知識がない者ならーーいや、弓道にある程度の知識があるものでもおおよそ抱きそうにないイメージを彼女は抱き、弓道部に入部し、部長にまで上り詰めた。そんな彼女が何を思って、今弓道場で正鵠を射ろうとしているのか、理解できる人物は、いるかどうかあやしいものだった。

「……ッツ」

 短い間の後に、矢が放たれて中央へ突き刺さる。
 それを褒め讃えるように、東雲の背後で拍手が起こった。

「凄いですね、東雲先輩」
「あら、薮雨君。いるのだったら、声をかけてくれればよかったのに」
「いや、集中してる先輩に声をかけるのは失礼ですよ」

 拍手をした人物は、弓道部員の薮雨啓人だった。まだ弓道着に着替えておらず、制服のままだ。

「これから着替え?」
「ええ、すぐに準備してきます」
「覗いちゃおうかしら」
「いつから痴女に成り下がったんですか先輩」

 悪魔らしく、にたりと笑みを浮かべ、東雲は答える。

「冗談に決まってるじゃない。ほら、早く着替えてらっしゃいな。そうでないと本当に覗くわよ」
「勘弁してください」

 そう言いながら、薮雨は弓道部の部室に入って数分もしないうちに着替えを終わらせて部室から出てきた。
 あまりの早さに東雲は目を丸くしながら、些か、からかいすぎたかもしれないとこっそりと自身の胸の内で反省した。言わずもがな、反省するだけで行動には反映されないのだが。

「なんだか妙に萎れてませんか先輩」
「そ、そう?気のせいよ」
「自分で反省するくらいならもう少し冗談の質をあげたらどうなんですか」
「これでも工夫はしてるのよ?色々なパロディを盛り込んだりとか」
「覗きのどこにパロディ要素があるんですか!?」
「ほら、女の子の下着をかぶって、正義のヒーローに変身するマンガとかあったじゃない?あれのパロディで私が薮雨君のーー」
「先輩がそれをやったらアウトですよ!というかまずそのネタを先輩が知ってることに驚きましたよ!そして言うならのぞきとの絡み要素が見あたりませんよ!」

 くすくす、と楽しそうな笑みをこぼす東雲の笑顔は、屈託のないものだった。振り回されていても、そんな笑みを見られると思ってしまうと、なぜか憎む気にはなれない。それが、なんだか薮雨にはずるく感じられた。その笑みが自分以外の誰かも見ているのだろうかと、そんなことを考えてしまう。
 そして、いかんいかん、と邪な考えを頭を振って、文字通り振り払う。

「さて、それじゃあ今日のノルマは真ん中に5回当てられたら終わりということにしましょうか」
「・・・わかりました」

 二人は横に並び、ほぼ同じタイミングで弦を引き絞る。そして、その引き絞った体勢のまま、二人は硬直した。
 いや、硬直という表現には語弊がある。正しく言うなら、二人は集中していた。正鵠を射抜くために。雑念を払って、行き詰まるような、息詰まるような張りつめた空気の中で、狙いを定める。決して二人の間に角逐があるわけではない。二人とも、今日のノルマを果たすためだけに集中しているに過ぎない。過ぎないのに。
 異様なまでの、火薬の臭いが漂ってくる強迫観念のような緊迫感が、そこにはあった。

「……っ」

 やがて、薮雨の方が先に、引き絞った弦を手放す。張りつめられた弦は当然もとに戻ろうとし、その勢いに乗せられて矢は放たれた。
 やや半楕円上の軌道を描いて、しかし疾風よりも早いであろう速度で矢は的の中心ーーよりもやや下の辺りに刺さった。

「………」

 続くように東雲も弦を手放し、放たれた矢は、薮雨の矢と同じような軌道を描いた。違いがあるとすれば、その矢は寸分違わずに正鵠へと吸い込まれるように刺さったことだろう。二人の間に、違いはそれしかなかった。

「ふぅ……やっぱり凄いですね、先輩」
「そうかしら?」
「ええ、どうやったらそこまで集中できるんですか?」
「こればっかりは教えてもどうこうなるものじゃあない気がするわね。でも、薮雨君がどうしてもって言うのなら、手取り足取り腰取り目取り歯取り首取り爪取りしながら教えてあげてもいいわよ?」
「あの、すいません。途中から殺して解して並べて揃えて晒す殺人鬼みたいな口上が聞こえた気がしたんですが」
「気のせいじゃないかしら」
「いや絶対言ってましたよね」
「どうして私が言うことがあるのか、いやない」
「反語形にしても何一つ誤魔化せてないですよ先輩」
「さ、うだうだと言ってないで次、い
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