不思議の国と云う、奇妙奇天烈な場所に自分は来ていた。今の兎の耳を生やした、端から見れば奇っ怪であろう妻と結ばれ、幾年月を経たかは定かではないが、ついこの間、急に妻が自分の故郷に行ってみないかと云い出したのだ。常日頃、昼も夜も世話になっている妻の我が儘の一つや二つ、まあ聞いてやっても善いだろう。そう思い、二つ返事で聞き入れた己が軽薄さに、ほとほと呆れるばかりである。人成らざる者である妻の故郷が、どうして我我人と大差ない都合の善い場所であると考えたのか。懊悩焦慮に苛まれるばかりである。
が、其れは其れ。此れは此れ。この様な出来事は、戸惑う事はあれども、慣れっこである。今まで散散複雑怪奇な出来事にばったりと出くわしてきた身で、今更何を躊躇する事があろうか。
此処が妻の故郷であるならば、善い所に違いはあるまい。思う存分に、愉しむとしよう。
然しこの不思議の国は、コケティッシュな魅力に溢れ過ぎてはいないだろうか。喩えるならば、艶福家の豪遊譚の一部を垣間見ている様だ。淫らな光景に彩られていて、目のやり場に困ると云うものである。先程から小脇で流れている胡桃色の川は、どうやら紅茶らしい。妻に云われてから、おっかなびっくりだが口に含んでみれば、成る程確かに芳しい茶葉の香りが鼻腔に纏わり付いた。お一つ頂戴と云う妻にも掬って飲ませてやると、頬を綻ばせている。矢張り、幸せな生活を送っていても、望郷の念に駆られる事はあるのだろう。今は存分に愉しんでくれると善い。
そう思いながら、再び妻と二人歩いていると、妖姿媚態な猫に出遭った。最初、魑魅魍魎の類が化けた者かと思ったのだが、妻曰く、此の猫が不思議の国の水先案内人らしい。この様な艶姿の猫に案内されるとなると、幾許かの不安は在ったが、其れと同じ程度の期待も在った。摩訶不思議な此の国は、如何にも退屈とは無縁そうではないか。
私は妻と腕を組むと、猫に案内されて不思議の国の奥地へと更に歩みを進めた。
存外懇切丁寧に案内をする猫に、少少面食らう事もあれども、不思議の国では森羅万象総てが現ではお目にかかれない物ばかりであった。其の幾多もの出来事総てが現とは余りに差異がありすぎている。お飯一つにしても、効能は淫らで頽廃したようなものばかり。つい先程飲んだ紅茶の川には、交わりの際に不要な諸諸の情緒を消し、お互いの姿しか目に這入らなくなると云う。
此処では博学才穎で在ろうが無知蒙昧で在ろうが、関わりが無いらしい。拘わりも無いらしい。理其の物が通じないのだ。
傾城傾国の、然し異形を何処か備えている美女が方方で意中の夫君と仲睦まじく手を繋いでいるか、若しくはまぐわっている。
ふと気になり、若しも私が独り身の儘、此の不思議の国へと足を踏み入れていればどうなったのかと、妻に訊いてみると、虎視耽耽と狙撃手のように機会を窺う他の魔物娘によって、あっという間に組み敷かれている事だろうと教えてくれた。私はその事実よりも、久方ぶりに妻との会話が成立した事に驚いた。青天の霹靂である。驚天動地、とも云う。
矢張り、故郷という物には、何かしらの得体の知れぬ力が有るのか。そう感慨に耽らずにはいられなかった。
逆しまに枝からぶら下がる猫は、けらけらと笑いながら私達夫婦に一つの飴玉を手渡した。お天道様を溶かしたような色合いの飴玉である。
だがしかし、やれやれと溜息の一つでも吐きたくなる。余韻に浸る暇も無い程に、せっかちな猫である。猫曰く、どちらか一人がその飴玉を口移しすると、それはそれは面白い事が起こると云った。何も人生の分水嶺に成る程では無いとの事なので、遠慮もせずに私がその飴を口に含んだ。
突如、噎せ返る様な甘さが口の中に広がり、何故だか急に妻の事が愛らしくなってきた。別段、普段からけんもほろろな態度を妻に対して取っていた訳では無いのに、だ。その衝動その儘に、妻の唇を強引に奪うと、その飴を飲み込ませた。
猫は其れを見、尻尾から徐徐に虚空へと消えてしまった。
粗目を胸に溶かし込まれた様な感覚が広がり、妻への確かな深い愛が、更に腹の底に沈んでいった。
只只管に妻との記憶が脳髄から溢れ返ってくるせいだろう。成る程、面白い事であると云っていたのにも、頷けた。これは夫婦同士、愛情を再確認するにはうってつけの代物であろう。夜郎自大であった私を救ってくれた妻の事を忘れる訳が無いが、振り返ると云う意味合いでは此れ程迄に適した物は無い。猫に礼を述べたかったのだが、既に消えてしまっているので云えなかった。まああの手の類の物の怪は、何れ姿を現すだろう。
真、善い機会だった。つまびらかに、具に不思議の国を見て回りたいのは山山だが、何時までも家を留守にしていては、勾引かされたのかとご近所様に思われてしまう。
其れは流石に不味いだろう。
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