眠り姫の続き

彼女、行橋結羽は眠り姫と生徒の間で呼ばれていた。三年二組の文系クラスにいる彼女は、いつでもぐっすりと眠っているからという所以からつけられたあだ名だ。いつでもぐっすり眠っているというのは、比喩ではなく、本当にそうなのだ。なんの奇縁か、三年連続で彼女と同じクラスになった僕が知る限り、彼女がその閉じている瞼を開いているところを見たことがない。登下校時はおろか、体育の時でさえ眠ったまま動いているのだ。それが彼女の種族、ドーマウスの特徴だとしても、凄いと思う。眠っているからといって日常に特筆するような支障はないらしく、極々稀にだが教師と会話をしたり、昼休みにはちゃんと近頃の若者としては感心なことに、「いただきます」の挨拶までしてから弁当を美味しそうに頬張るのだ。そんな、常人からすれば吃驚仰天な生活を送っている彼女と三年連続で同じクラスにいると、さすがに初めて彼女を目にしたときの驚きは薄れていた。人間、異常にもなんにでも慣れることができるという、いい例だ。
ともなれば、三年間同じクラスで交流がないわけがなく、一年生の中ごろには僕と行橋結羽は早くも友人になっていた。
普通に一緒に帰ったり、昼飯の奢り合いとか、気さくなやりとりを交わせる友人になっていた。寝ぼけている――いや、寝ている彼女は時々、会話がずれることがあるのだが、むしろそれが三年間という年月の中で、マンネリを感じさせることのない刺激としての役割を果たしてくれていた。
だから、正しい選択だったのだと思う。階段から足を滑らせて落下する、彼女の華奢な身体を咄嗟に受けとめたのは、正しい選択だったと思う。

「大丈夫か!?」

 こんな状況でも寝ているたくましい彼女だが、小柄な体躯が幸いし、僕も勿論彼女も大した怪我をすることなく、日常に起きたハプニングを終わらせることができた。

「んん……おはよう」

 非常時にまで寝ぼけた、もとい寝ている挨拶をしてくる彼女に、溜息を隠せなかった。魔物娘とはいえ、階段から転落したらただではすまないのに、この調子だ。溜息の一つくらい勘弁してもらうとしよう。

「はぁ……おはよう」

 兎も角、無事な彼女を見ると、軽口の一つや二つでも叩いてやりたくなった。だが、この選択は、間違いだったのだと思う。階段ではなく、僕の軽口が、ほかの誰でもない自分自身の人生を狂わせた。たぶん、それは、きっと良い方向に。良い方向に、間違えた。

「まったく、可愛いやつだよお前は」
「ほぇ……」

 そう、僕は生まれて初めて、彼女を褒めたのだ。それも、容姿を。いや、もっと深い部分を。それが、彼女にとって――ドーマウスという種族にとって、何を意味するのか、そのとき無知蒙昧な僕が知る由も――いや、知っていた。
 あの時、衝動的に彼女の身体を求めてから、僕は覚悟していた。だからこれは、僕にとって。



 高校入学当初。
 僕は友達が作れずにいた。別に中学生特有の病を高校まで引きずってきた覚えはなかったし、人付き合いを苦痛に感じるタイプでもなかったのだが、なぜか友達が出来なかった。きっと、あっという間に形成されていくグループに、入り損ねたのだと思う。そんな僕は入学したばかりの高校生活に何も見出せずに、専ら周囲になんとか溶け込むことをとりあえずの目標としていた。
 さり気なく話の中に混じり、さり気なく同調したように笑って、なんとかグループに属する努力をしていた。そんな努力に勤しんでいたからだろう。当時、どこのグループにも混じることがなかった彼女は、僕の目には一種、異様なものに写った。
 まるで夢遊病患者のように、ふらふらとおぼつかない足取りで図書室へと向かう彼女に、なぜか目を奪われた。なぜだろう。でもそのとき、この機会を逃したら二度と彼女とは会話ができないような、そんな不安に襲われて、僕は慌てて彼女の後を追っていた。
 気を抜けばすぐに躓いて転んでしまいそうな足取りの彼女に追いつくこと自体はとても簡単だった。だが、歩いている彼女に追いついたとき、僕は思わず絶句してしまった。
 彼女は、行橋結羽は眠りながら歩いていたのである。
 夢遊病患者のように――ではなく、本当に眠りながら。
 その光景を見てやっと僕は、クラスで噂になっている眠り姫が彼女だと知った。
 グループに混じらないのも、無理はない。本当に眠っていたら、意思疎通もままならないだろうから。そう思うと、今度は彼女にどうやって話しかければいいのかわからなくなってしまった。話しかけても、こちらに気付いてくれるのかどうか。
 だが、そんな心配は杞憂に終わった。

「ん?あれぇ…」

 ひどく眠そうな声を出しながら、彼女は僕を見た。いや、相変わらず瞼は閉じられたままだったので、見たのではなく、正確にはこちらを向いたといった方が正しいのだが。


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