序章

 落ちていく。どこまでも、どこまでも落ちていく。人によって、眠りにつく瞬間、意識が暗澹に呑み込まれる感覚に違いはあるだろうが、十七歳の少年、木口筑紫にとっては眠りにつくのはそんな感覚だった。柔らかな布団の感触を感じながら、次第に意識を蝕んでいく睡魔になすがままにされる感覚は、決して嫌悪感を掻きたてるものではない。むしろ、胎内回帰をしているような安堵すら感じてしまう。その感覚に逆らうことなく、筑紫は意識を暗黒の中に沈めていき・・・。

「ん・・・」

 いつも眠りに落ちるその瞬間はたまらなく至福の時だと感じるのに、意識が目覚めてしまえばもうそれは一瞬の出来事として処理されてしまう。いっそのこと、眠っている間も心地いい感覚がわかればいいのにと筑紫は思うが、それでは睡眠の意味もないだろう。
 仕方ない。
 そう思いながら、筑紫は気だるさの残るその身を起こそうとしたところで、気がついた。
 先ほどまで、具体的には眠ってしまう直前まで自身を慈母の抱擁の如く包み込んでくれていた布団の感触が、なかった。雲散霧消したかのように、その肌に馴れた触感を感じないことに、ずれているような違和感を覚えて、筑紫は胎児のように丸まった自身の身体に鞭を打つ。
 丁寧に溶接されたのかと錯覚するくらいに重たい瞼をゆっくりと開き、視界に入るものを確認し、

「!?」

 反射的に跳ね起きた。器用なことに、社会で間違いなく通用するような、きちんと背筋の伸びた美しい姿勢で。

「な・・・」

 驚きのあまり、言葉が上手く出てこない。それでもなんとか喉から振り絞って、自身の死力を尽くして出したと言っても過言ではない、が、しかしそれでもたった一文字の言葉を出すのが筑紫には精一杯だった。
 筑紫が寝ていたのは、記憶に間違いがなければ我が家の寝室だ。それなら目が覚め、視界に入ってくるのは自分の部屋、あるいは口うるさく自分を起こしにきた家族の誰かのはずだった。
 が、今現在筑紫の目の前に広がるのはそんな光景ではなく。
 人が発することのできる喧騒全てを集めたように思えるほど騒がしい、ヨーロッパやRPGのゲームで見かけるようなバザーの真っ只中だった。
 真っ只中に、筑紫はいた。
 ぐっすりと寝ていた自分の部屋とは似るはずもない、いや間違っても似てはいけない。そして現実からあまりにも切り離されたような光景に、筑紫は文字通り言葉をしばし失った。
 やがて、現状を自分に言い聞かせるようにして、口を開く。

「夢・・・?あ、でも夢って認識できてる」

 落ち着こうとすると、自然、これは夢ではないのかという考えが頭を過ぎるが、それにしては自分が踏んでいる地面の感覚も、耳にする騒がしさも嫌になるほどリアルさを持っていた。自分がいた部屋よりもよっぽど現実味を帯びているかのような、そんなリアルさを。

「なんだこれ、明晰夢ってやつなのかな・・・・・・・・?」

 明晰夢は自分で夢を見ていると自覚しながら見る特殊な夢のことで、特徴としては見ている者の思い通りの状況を夢の中に作り出すことができる。
 どこかで拾った役立ちそうにない雑学の知識の引き出しから、筑紫は無理矢理その情報を引っ張り出してきた。そのどれもが、わけのわからない、夢か現かもわからない現状を理解するための第一歩のためだった。

「思い通りに、できる?」

 ほんの少しの高揚を覚えながら、筑紫は空に手を掲げ、『空を飛ぶ』と念じた。本人は至って真面目に真剣に真摯に願った。おそらく一番結果がわかりやすい願いだったのだが、しかしその願望、願いは叶うことなく、筑紫は何も起こらない現状にさらに戸惑うことになった。
 思い通りにならないということは、明晰夢でもないということで、ならば。

「単なる夢?」

 そうであってくれと淡い希望を込めて筑紫は自身の頬を抓る。が、頬には期待を裏切るように鈍い痛みが走るだけだった。これも、嫌になるほどリアルなもので、希望もなければ夢もない。

「現実・・・?いやまさか、そんなの」

 有り得ない。目が覚めたらそこは雪国でした、と言うのならばまだ少しはロマンがあるものだろう。隣に知らぬ美女が寝ていた、というのも戸惑うだろうが心ときめく展開ではある。だが、バザー。
 バザーだ。
 ロマンの欠片もない。そしてあまりに現実として受け入れるには唐突で、突飛過ぎた。もしこれが現実なら、自分は誘拐されたとでも言うのだろうか?自分の想像に苦笑いを浮かべながら、すぐにその想像を筑紫は否定した。
 誘拐だとしたら、こんなわけのわからない場所に放置される理由がわからない。いや、何かしらトラブルが起きて、自分はこの場所に放られたのかもしれない。だとしら、こんな場所で暢気に突っ立っている場合ではないのではないか。
 馬鹿げた妄想だと、一笑
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