だから、僕は。

 暑い。そんな感想しか持てないような季節だった。具体的には、夏。教室ではなんとかクーラーが効いているけれど、学校の経費削減ということで設定温度は去年よりも二度上がっているのだそうだ。冗談じゃないとは思うけれど、嘆いていても仕方がない。人間、慣れが大切だ。と、無理矢理自分を納得させておくことにする。
 それに、もうすぐ放課後がやってくる。部活動に入っていない僕にとっては、もう帰宅のためだけに全てを費やせる至福で至高の時間だ。まだかまだかと焦らされるこの気持ちはきっと恋にも似たなにかだろう。
 最後の授業の時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、僕はそれとほぼ同時に鞄を提げて教室を出ようとした。丁度その時だ。

「渚、渚聡はいるか?」

 そんな僕の行動を二年前からお見通しであったような口調で、僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
 その声に、思わず僕は硬直してしまう。
 声の主は僕を見つけると、にやりと嫌らしい笑みを浮かべた。そして、一歩一歩距離を詰めてくる。本当にこの教師は人を絶望の底へと叩き落すのが上手いと思う。その技術を味わう当の本人である僕はたまったものじゃないけれども。
 まあそんな僕の心情を察することなく、その人は僕の肩に手を乗せて言った。

「さて、職員室まで来てもらおうか?」

 結局、僕は泣く泣く職員室へと連行された。普通に連れて行かれるならまだいいのだが、彼女の『尻尾』で簀巻きにされたようになって連行されたので、クラスメートにとんだ醜態を晒してしまい、僕の無垢な心は墨汁で染められたように汚れてしまった。
 本当にこの人、デリカシーという言葉とは無縁の生活をしてきたんだろうなと容易に想像できる。

「今、凄い失礼なことを考えてないよな?」
「い、いえまさかそんな」
「ならいい」

 そう言って職員室の椅子に腰掛け、僕はその教師と対面する。向き合う。
 頭部に生えている獣耳に、鋭い鉤爪が見える熊のような手、蝙蝠を思わせる翼に、ゆらゆらと気分によって動くのは、およそ地球上の生物は持ち合わせていないような、凶悪な外見の尻尾。
 先生、彼女、英語担当教師、篠原優をマンティコアたらしめている外見的特徴だった。

「ところで先生、僕が呼び出された理由ってなんですか?」
「ほぅ、赤点をまたとっておいて理由がわからんとぬかすのはどの口だ?この口か?この口だな?」

 ぎゅいいいい。そんな効果音がしそうなほどに、熊のような手が僕の頬を器用に掴んで引っ張る。保護の魔力のおかげか、痛くはなかったけれど、その構図はまさに捕らえた獲物を食らおうとする捕食者の様子そのものに見えたに違いない。
 あとは、自分の頬の伸縮性に少し驚いた。ここまで伸びるものなのか。

「X点なんて点数、お前が初めてだよ渚」

 僕のプライド上、点数は聞こえないものにした。というか無理矢理意識を切り離した。

「いふぁ、へんへいのふぉんはいはひひはるはんへふふぉ」
「あ?・・・ああ、ほら手離してやるからちゃんと喋れ」
「先生の問題が意地悪なんですよ」

 また引っ張られたが、これは間違ったことではないと思う。名前こそ優しいなんて文字が入っているけれど、出題されるテストの問題はどれも極悪と言っても十分なほどの難易度のものだった。篠原先生の極悪非道な問題で100点をとったことのある人物を、僕は未だ学校内で聞いたことがないくらいだ。その程度には難しい。

「意地悪なんて人聞きの悪いことを言うな。アタシはちゃんとためになる問題を取り入れてるだろうが」
「アガサ・クリスティやシェークスピアの原文を引っ張ってくるような教師を優しいとは思いません」
「あぁん!?歴史の偉人を馬鹿にするのは構わんがアタシを侮辱するのは許さん!」
「普通逆じゃないですかね!?」

 自尊心はどうやら高いようだった。

「だいたい、そして誰もいなくなったとか、オリエント急行をチョイスするならまだいいですけど、予告殺人を選ぶあたり僕たち生徒はもうお手上げですよ」
「性格描写には定評があるだろが」
「じゃあシェークスピアはいったい何ですか」
「悲劇でお前らの涙腺を緩ませる」
「テストに盛り込むべき要素じゃないですよね!?」
「うるさいうるさい!アタシはそういった物語をしっかり読み解けるかどうか、お前らに期待してないんだよ!」
「え?」
「あ、間違えた期待してるんだよ」
「教師として一番間違えちゃいけない部分間違えましたね!?」
「うるせえ!ちゃんとお前らの年頃ならキュンキュン胸が高鳴るような題材も盛り込んでやってるだろうが!」
「ギルバート・キースのどこにそんな要素があるんですか」
「あぁもうわかった、次は赤いくつでも出題してやるよ」

 投げやりな態度になりながら先生は机に置いてあったコーヒーを一気に飲み干した
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