「ちょっとそこのあんた」
そう声をかけられた張本人――神原夕紀――が自身を呼んだ声に反応しなかったのは、三つの理由があった。まず、一つ目の理由としては、状況が挙げられた。神原が歩いていたのはなんの変哲も無い、街路樹が並ぶ夜の歩道で、神原以外にも散策を楽しんでいる人がいたせいで、神原はしばらくの間その声が自分を呼んでいるものだと気づかなかった。
次に、その神原を呼び止めた声だ。神原は学校で良くも悪くも平凡な生活を送っていたが、その学校生活を振り返っても、その声ほど悪戯心を含んだような声を聞いたことがなかったのだ。身に覚えの無い声に名前も呼ばずに、呼び止められては、まさか自分が呼ばれているのだとは思わない。それは誰しもそう思うことだろう。
そして、第三の理由は――
「あんただよ!」
「わっ」
声の主はたまりかねたのか、神原の手を強引に引っ張ると、正面から自分と相対させた。その拍子に、神原の持っていた棒のようなものがころころと転がっていったが、声の主は気にしない。その声の主の姿は、異形という言葉がよく似合うものだった。人の形をしている外見こそ、年相応の少女のそれを思わせるが、だが、その顔にあるのは大きな一つの目だった。顔の大半を占有してしまっている、その大きな目。瞳。
さらに彼女の周囲にある無数の眼球がついた触手は不気味に光り、ミミズのように蠕動を繰り返し、見る者の生理的悪寒を呼び起こすようなおぞましさを備えていた。
ゲイザーと呼ばれる上位の魔物。
それが彼女の正体だった。そしてサチと言うのが、彼女の名前だった。
そして彼女――サチ――は、にんまりとシニカルな笑みを浮かべて、こう言った。
「アタシ、綺麗?」
まるで弱いもの苛めをするガキ大将のようなその表情に、触手が伴ってざわざわと蠢く。綺麗と聞いておいて、相手を脅しにかかるようなその態度に、その言葉が本意でないことなど容易に理解できた。
そう、ゲイザーという種族に共通する意地悪な性格に従順に。服うように。
端から答えなど気にしてはいないのだ。ただ怯える姿を見て、逃げようとする姿を見てそこからお得意の邪眼でちょっぴり暗示をかけて、からかってやろうと思っていた。それがサチの過ごしている日々で、日課のようなものだった。
怖がられようと、嫌悪されようと。
それは全てサチの眼によってすり替えられるのだから。だから今日もまた、サチは声をかけた少年、神原をいつものように脅かしにかかったのだが。
神原は不思議そうに首を傾げて、こう言った。
「えぇっと、綺麗な声だけど、ごめんなさい、誰でしたっけ?どこかで会いましたか?」
「なっ・・・!」
「あの・・・何か御用でしょうか?」
「え、あ、あぁ、用、用ね・・・」
全く想定していなかった、予想の範疇を超えた受け答えに、サチは内心戸惑うしかない。
(なんで!?なんであたしの姿を見たのに驚かないんだ!?)
そう、今までサチが出会ってきた者は全て、サチを嫌悪して、恐れていた。ある者はその顔を埋めるようにある単眼を見て怯え、ある者は無数の漆黒の触手を見て慄き、またある者はサチの存在自体におぞましいものを感じ取り、逃げて行った。
そこにサチの脅かしてやろうという意思がありはしたが、基本的に、彼ら、脅かしてきた彼らは皆、ろくに答えもせずに逃げ惑うだけだった。
そんなサチに向けられる、初めての言葉。
手っ取り早く言ってしまえば、サチは褒められることに耐性がなかった。
「用・・・そう!あんたに用事があったんだよ」
「はぁ・・・。で、なんでしょう?」
「何って、それは・・・・・・」
何だと言うのだろう。と、サチは自らに問うた。そもそも、今日もいつものように人を脅かす一環で声をかけただけなのだ。本当に用事があるはずもない。
あるはずもないことを言うことが、かぐや姫の無理難題よりも難しいかもしれないと内心感じつつ、サチは即席で自分の中になんとか理由を拵えようとするが・・・。
(なに?本当になんなんだ!?蓬莱の玉の枝でも持って来いと!?)
実際それでは用事どころではなく命令なのだが。
「あの・・・大丈夫ですか?」
「え?ああぁぁあ!!大丈夫だよ!」
「そうですか、なら僕はここで失礼しますね」
「えっ」
突然の別れに戸惑うサチだったが、これは神原からしてみれば当然のことだった。なにせ、神原の立場からすれば突然呼び止められて、そして用事があるのかと思えば大丈夫と言われ。ならばわざわざ見ず知らずの人と話すこともないだろう。そう考えるのはとても自然なことだ。
だが、サチにとってはそれが今生の別れのように思えてしまって仕方がなかった。自分を褒めてくれた初めての人を逃したくない。ただそれだけの情動に身を任せて、サチは口走っ
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