今夜、ぼくは死ぬことにしました。
丸い月が浮いている静謐な夜に、一人でこっそり、生き恥を晒し続ける人生に止符を打とうと考えたのです。
家の近くの暗い森。その一番深くまでいって、太い幹の大樹の枝に持参した縄を括り付けます。頑丈な荒縄の輪っかは、地面に置いたランタンの灯りに照らされながら、ぷらんと宙に浮かんでぼくを見下ろしました。
一番太い枝を選んで結びつけたので、途中で解ける心配はないでしょう。
思い残すことはありません。
あとは一思いに首を輪にかけるだけ。
なのにぼくは震えていました。この後に及んでまだ、生への執着があったのです。
灰色の人生でも、今際の際には幾らかの後悔を思い浮かべてしまうようです。
ぼくは愚かな男でした。
生まれてからずっと今に至るまで。
間抜けで、愚鈍で救いようの無い阿呆でした。
ぼくの生家は裕福な商品の一家でした。
食べるものに困った事はなく、着る服も十全で、きちんと勉学を学ぶ暇もありました。ぼくは恵まれていました。
けれどその幸運に報いることはできなかったのです。
兄は数才と優れた判断力をもって、家業を一層大きくしました。
姉は剣の才に恵まれ、男勝りな性格で騎士団に入りあっという間に隊を率いるまでになりました。
ぼくは二人の背中をただじっと見つめていました。
ぼくには何もありませんでした。
兄のような怜悧も、姉のような屈強も、持ち合わせてはいませんでした。
勉学も運動も、商才も芸才も、篤実な人格も、何一つとして無かったのです。
それなりに努力をしました。けれど、それなりしかできませんでした。
どんなことも長続きせず、結果は出せず、時間と労力と金銭だけをいたずらに消費するばかり。
そんなぼくを兄姉は、家族は、優しく見守ってくれました。
きっとお前にも一つくらいは良い所があるはずだ。と、慰め励ましてくれました。
春の光のように優しく、温かな心がぼくの周りには沢山ありました。
それが、ぼくには、何よりも辛かったのです。
慈愛に満ちた眼差しが、優れた者が愚者を見下す視線が、ぼくへ鋭い槍のように突き刺さったのです。
皆、ぼくを見捨てないでくれました。でも時折、落胆と軽視がその瞳に現れていました。
役立たずのぼくは、彼らのお荷物なのだと。その目が雄弁に語っていました。
彼らの本心はわかりません。ぼくの歪んだ思考がそう思わせているだけなのかもしれません。
けれど、ぼくは心が折れてしまいました。
ぼくの脆弱な精神はそんなことにすら耐えられなかったのです。
無能な自分が、優しい家族が。
その優しさを疑うようになった性根が、何よりもぼくの心を砕き、腐らせました。
生きていくことが億劫になり、死の安らぎに想いを馳せる。
そんな時間が多くなって、遂に僕は腹を括り、この世界から消えてしまうことを決断したのです。
夜風が吊るしたロープを小さく揺らしています。
薄暗い思い出に浸っている間に、ぼくの震えは止まりました。これならば躊躇する事はないでしょう。
ぼくは輪を掴み、つま先で立って、それを首にかけようとしました。
首の皮に硬い縄が触れます。輪に頭を通して、腕の力を抜けば、全ては終わることでしょう。
死出の旅までは少し苦しむことになりそうですが、それもこれから生きていくことへの倦怠と苦痛に比べれば微々たるものです。
これで、終わる。楽になれる。
ぼくは手を縄から離しました。
なのに、どうしてか。
ぼくの首に縄は食い込まず、ぼくの身体は夜の闇の中に浮いていたのです。
「──ダメよ、そんなことをしては」
ぐちゅぐちゅ。音がします。
ぼくの身体は柔らかいモノに包みこまれていました。
脇の下から2本の細い腕が伸びてきて、ぼくをきゅっと抱き締めます。
ランタンの光がぼくの身体を照らすと、無数の黒い触手が手足に蛇のように絡まっているのが見えました。
「死んでしまったら、すべて消えてしまうわ。それはとても悲しいこと。そしてとても、もったいないことよ。喜びも、悦楽も。アナタはまだ、味わい尽くしてはいないでしょう?」
右の耳に声が聞こえてきました。
艷やかな女の人の声です。熱い吐息が耳たぶに触れ、ぞくりと背中が震えました。
「絶望に満たされたあなた。かわいそうなあなた。死を選んでしまうくらい、自分が嫌いなあなた。だからこそ、愛おしい人」
ぐちゅぐちゅ。音が響いてきます。
ぼくの身体は余す所なく、暗い色の触手に絡め取られていました。
何本ものうねる触手が、ぼくの肌の上を這い回ります。服の中に入り込み撫で回してきます。
「私が教えてあげる。あなたの空虚を快楽で埋めてあげる。だから、ね。私に
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