前篇

いってらっしゃい、という言葉に憧れを抱くなんて、素直には言えない年頃なのだ。
中学二年生という肩書にも慣れてきた早朝、なんとなく詩的っぽくそう思った。
なるほど、これが中二病というヤツか。

「ぅー……、さみぃ……」

時計の針は、六時半。もちろん、午前のだ。
布団の魔力とやらにも免疫ができた今朝、リビングを前に一人呟く。
別に寂しくはないが、一人だ。
親父も、兄貴もとっくに出かけているのはいつもと何ら変わりがない。
朝 昼のご飯代、とメモ書きの上に英世が一枚置いてあるのも、やっぱり何ら変わりがない。

「あーやっべ……今日って英単語テストあるじゃん……」

くしゃりと千円札をポケットに突っ込み、カバンを提げて靴を履く。
寒い寒いと、バカみたいに呟きながら玄関を抜けて、かじかんだ手で鍵を閉める。
冷蔵庫の中にみたいに冴えた空気に、鉄製の合鍵もキンキンと冷たい。

「いってきまーす……」

どうせ、返事はない。
そんなことは分かっていても、誰もいない家でも、それだけは言っておいた。

「さって……メシは何にすっかなー」

朝が早すぎて誰もいない通学路。
車もまばらで、しばれるような寒さもあいまって静かな歩道。
いつもなら行きがけのコンビニに寄って適当に何か買えばいいけども、肉まんもそろそろ飽きた。
弁当は冷めてて不味いし、マックなんて好みじゃない。

「たまにゃー遠回りして別のコンビニ行こうかのー?」

なんて、通学路から逸れた路地を覗いてみる。
あまり通らない道だが、適当に行けばコンビニくらいはあるだろう。
と、思ったときだった。

「ん?」

焼きたてのトーストみたいな、芳ばしい香りが何処からともなく漂ってきた。
あー、パンか。たまには悪くないかも。
朝はご飯派を自負する俺だが、別にパンが嫌いなわけじゃない。
牛乳とパンも、まぁ朝飯の鉄板だと思う。人それぞれだろうが。

「んー……こっちか?」

香りを頼りに、なんて曖昧な追跡をする自分にやや高揚する。
だって、まるで探偵みたいじゃん? まぁ、ただの腹ペコ小僧なんだけど。

「って、近っ!」

危うく、通り過ぎるところだった。
路地に入って三十歩、振り返れば元の通学路も見える右手側、そこにはあった。
仰々しく言っといてなんだけど、普通のパン屋が。

「……ミルキーベーカリー?」

朝飯の鉄板みたいなネーミングだった。
これはもう、俺にこの店に入れと暗に言っているのかもしれない。
つーか、パン屋ってこんな朝早くにも開いてるもんなの?

「って、開いてるし……」

ドアハンドルを軽く押すと、まさかの無抵抗。
こんな時間帯、コンビニしか開いてねぇと思ってた……。
んー……、中見た感じ誰もいねぇんだけど……これ入っていいのか……?
まぁ……、うん、いっか。

「失礼しまーす……」

もそもそと申し訳程度に言い、こそこそと店内に入る。
勢いが少ないせいか、ドアベルの音もどこか鈍い。
あれ、俺まるで泥棒みたいじゃね? とか思ったけど生憎とそんなことをする度胸はない。
暖房が利いているのか、店内は割と温かく、あの芳ばしい香りも鼻孔をくすぐる。
鼻孔がくすぐられ過ぎて口の中が涎で大洪水だし、ぐーぐーと恥ずかしげもなく腹が大音声で空腹を主張しやがった……。

「つか、どれも美味そうな……」

それもこれも、まるで宝石のように並べられたこのパン達のせいだ。
てらてらと艶やかな焼き色は、まぁ中二っぽい表現であれだがまさに宝石のようだ。
アンパン、クロワッサン、フランスパンにベーグルサンドなんか、やばいくらいこげ茶色だ。
ぜったい出来たてだろこいつら……、見ててホント腹が減る。

「まぁ、アンパンは外せまい!」

とりあえずと、トングでアンパンをバットに放りこむ。
誰にも文句は言わせねぇ、餡子はジャスティスだ。

「あっとはベーグルのハムサンドに……、やっべ、ホットドッグ超卑猥なんですけどー!」

誰もいないのをいいことに、下らない下ネタに一人で受けながらひょいひょいとパンを選ぶ。
まぁ、三つもあれば充分だろう。値段も無駄にお安く、三百円いってないという。
あー、やばい、涎が止まらん……。

「って、そういやマジで店員どこだ……?」

改めて口に出すまでもなく、実はパンを選びながらもどうしようと思っていた。
うん、レジがあるところにいるべきはずの店員さんがまったく見当たりません。
これ……、防犯とか大丈夫なのか……?

「……あー……、すんませーん!」

一瞬、やっぱりパンを返して帰ろうかとも悩んだけども、だって美味そうなんだもん。
レジの向こうの部屋に向けて声を出してみるが、誰も来る気配がない。
漫画みたいに、レジにお金おいて行こうかな……。
そう思って、やっぱり泥棒みたいにすり足でレジへ向かう。
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