品のない言い方をするなら、岸川家は金持ちだ。
外資系企業でバリバリ働く両親のおかげで、これまでお金で困った事はない。
反面、家族で過ごす時間が少なくなりがちなのが難点といえば難点だったが、元々あまり淋しいと感じない性格だった事も手伝って、岸川光太郎は自分の境遇に不満を抱いた事はなかった。
金銭的に余裕があるからといって両親が息子を甘やかしているかといえば、そんな事もなかった。光太郎の月々の小遣いは人並みで、それ以上に必要なら自分でバイトでもして稼げと言われている。
事実、彼はそうしていた。けれど同時に、やはり自分は甘やかされてもいたのだろうと思う。
親馬鹿なのか罪悪感なのかは知らないが、急に両親揃って長期で海外に行かなければならなくなったからといって、お手伝いさん付きのマンションの部屋を用意して行かれては、そう感じるのも無理はない。
所詮バイトとはいえ、高校生なりに社会経験も積んで自信を深めていたのに、結局一人では生きる事もままならない現実に、光太郎は地味にヘコんだものだった。
◇
不快な音で目が覚めたのは、ある夏の日の朝の事だった。
低く唸るような、振動するような音が何処からか聞こえてくる。
虫の羽音のようだと光太郎は思った。それは、彼が最も嫌う音だといってもいい。
一瞬にして睡魔は去った。これまでにないくらいスッキリとした目覚めだが、まるで感謝する気にならない。
何もかけずに寝ていたベッドの上で、光太郎はムックリと起き上がる。寝癖のついた髪を掻き上げ、寝乱れたタンクトップを直しながらベッドを下りた。
羽音はかなり大きい。既に背筋は冷え、鳥肌も立っている。
本当は音源に近づくのも嫌だったが、この音の主を放置しておく方がよほど恐ろしい。今は姿が見えないからいいが、例えば寝ている間に顔の付近を飛ばれたり、目を覚ました瞬間に大きな羽虫の姿を目にしたりしたら、誇張抜きで気絶する自信がある。
後顧の憂いは断たねばならない。そんな強い決意と共に、光太郎は殺虫剤のスプレーを手にした。
羽音は天井裏から聞こえてくるようだった。
光太郎は耳を澄まし、より音が大きく聞こえる方へ歩いていく。対面式のシステムキッチンのあるダイニングから、大きなガラステーブルの置かれたリビングを抜け、脱衣場からバスルームへと。
ここまでくると、羽音は足が竦むほど大きくなっていた。天井裏にはどんな地獄絵図が広がっているのかと、不安が湧き上がってくる。
光太郎の頭の中では、以前テレビで見たスズメバチ駆除のドキュメンタリー映像が再生されていた。羽音だけから判断するなら、天井裏にある巣は、あんなレベルではない。みっしりと隙間なく蜂の巣が詰まっていてもおかしくなかった。
自分の手には負えないかも知れない。そんな恐怖に囚われる。右手のスプレー缶が、酷く非力なものに思えた。
業者を呼ぼう。そう光太郎は決意した。過去にスズメバチに刺された経験があるだけに、蛮勇は文字通り命取りだった。
踵を返そうと一歩退き、そこで――
みしり、と天井が軋む。
バスルームの天井にある、配線工事などのために天井裏へ上がるための入口の蓋が膨らんでいるように見えた。何か相当の重量を持つものが、そこに存在するのだろうと思われた。
ヤバい、と光太郎は表情を引き攣らせる。
しかし時すでに遅く、バガン、と天井の蓋が踏み抜かれる。そして、
「――ふぎゃ!?」
そんな悲鳴と共に何者かがバスタブへ落ちた。
前日のお湯が残るバスタブは、餌を放りこんだ鯉の住む池の如く水飛沫が上がっていた。
わざとやっているのかと思うほど暴れる何者かのせいで、光太郎は全身ずぶ濡れになっていた。目にお湯が入ったせいで滲む視界は、何やら黄色い。そして所々黒い。
目許を拭って改めて見てみると、バスタブに浸かっているのは一人の少女だった。より正確には、少女のような外見をした何かだ。
見た目は可愛らしかった。顎のラインで切り揃えたようなショートの髪に、大きな目。体型的には細身だが、女性らしい曲線的なシルエットは失われていない。
しかし、そんな第一印象を真に受けてはいけない事を、光太郎は知っていた。目の前にいるのは、見た目通りの少女などではない。
というか人間ではない。
普通の人間は頭に触角など生えてはいないし、背中に半透明の翅を持ってもいない。そこまでならコスプレで説明もつくだろうが、腰の後ろには明らかにそれでは説明不可能なものが付いていた。
昆虫の腹のような器官が。
魔物である。
(ハニービーかな……?)
手足をバタつかせながら翅も震わせているせいで、異常なまでに立っていた水飛沫が少し静かになってきているのを眺めながら、光太郎は当たりをつける。それは
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