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上に立つ者ならば、常に民の暮らしを把握しておくべきである。
それが信条の母に連れられて、彼女は幼少の頃より国内の様々な土地を巡ってきた。ときには、辺境とすら呼べるような最果ての村々へも足を運んだ。
彼と出会ったのは、そうして訪れた、とある漁村での事だった。
小さな村だった。それほど幅のある訳でもない川の畔にあって、その日に必要なだけの糧を川から得る、素朴な風景の村だ。取り立てて印象的な訳でもない、何処にでもある村。
だから、その少年も特に印象的な外見の持ち主だった訳ではない。赤銅色の肌に癖の強い黒髪――何処にでもいる少年だった。
違いといえば、彼が大人たちの手伝いをしていた事だろうか。
他の子供たちが遊んでいるときにも、彼だけは大人たちの中で仕事をしていた。
とはいえ、彼の家が、子供の手すら必要とするほど困窮しているようには見えなかった。
周りの大人たちの顔には笑みが浮かび、彼もまた笑顔だった。それは、つまり彼が、ちゃんと役に立っているという事だ。子供が背伸びをして大人のやる事に手を出しているのではなく、彼の働きが紛れもなく大人たちの助けとなっているのだ。
勿論、子供に大人と同じ事が出来る訳がない。しかし、よく見ていると、彼は先を予測する事に長けていた。大人が一つの仕事を終えて次に移ろうとするときに、それに必要なものを予め打ち合わせてあったかのように持っていく。
大人たちの仕事を遅滞なく進ませているのが彼の存在である事に気づいたとき、彼女は戦慄にも似た感覚を覚えた。
自分と大差ない年頃なのに。自分は、まだ母に手を引かれているのに。
子供なのだから、まだ出来ない事があるのは当たり前――それを正しく認識している大人たちの中にあって、彼は対等に扱われていた。
その事を悔しく思う反面、彼女の中には尊敬の感情も芽生えていた。
凄い、と。この少年が大きくなったら、何処まで優秀な人間になるのだろう、と。
母の後を継いだ自分の傍らに、彼がいる光景を想像した。
それは、とても魅力的なものに思えた。
どんな手段を使っても、彼を自分のものにしたいと思った。
いま思えば、それは恋と呼ばれる感情だったのかも知れない。
そう――このときには、もう始まっていたのだ。
王宮は、黄土色のブロック状の石を組んで造られている。
それを隙間なく敷き詰めた謁見の間の床を、粒子の細かい砂が薄く覆っていた。
室内には護衛の兵が数人。入口の左右に一人ずつ。壁際に二人ずつ。正面左右に一人ずつ。その奥の数段高くなった所には、玉座が置かれている。
玉座の上で脚を組み、肘置きに頬杖をついているのは、まだ年若い女性だった。全身を飾る黄金の装飾品が霞むほどの美貌の持ち主――若くとも先代に引けを取らない風格を持つ女王、スネフェリアだ。
彼女の見下ろす先には、一人の男が跪いている。癖の強い黒髪に、細身だが引き締まった体格の男だ。表情は見えずとも、その全身からは女王への尊敬と畏れ――そして親愛の念が滲み出ている。
赤銅色に輝く男の肌を好ましげに視線で撫でながら、スネフェリアは笑んだ。視界の端には、彼女の右腕と言っても過言ではない部下の女性が映っている。
女性の瞳は絶望に塗り潰され、その面には裏切られたような表情が浮かんでいた。女王の前に跪いているのは彼女が誰より信頼する――そして、それ以上の想いすら抱いている相手なのだ。
しかしスネフェリアは一顧だにせず、傲然と男へ告げた。
逆らう事など許さない王の言葉で、妾の夫となれ――と。
男は大きく身体を震わせ、深々と頭を垂れる。
女性の瞳から涙が一筋、零れ落ちた。
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それまでペンを走らせていた書類から顔を上げ、アッシェンドラは小さく息を吐いた。
窓の外へ視線を向けると、何処までも続く吸いこまれそうな青空が目に入る。ここ数日は晴天が続いた事もあって、今日も暑かった。
それでも窓からは風が入って来るため、意外と不快さはない。薄絹のような衣はたっぷりと空気を含み、掻いた汗は程なく乾く。
とはいえ、やはり暑いものは暑かった。手で触れてみると、肌は熱を持っている。
椅子の座面から垂れ下がる尻尾が動かないのも、それによって体温が上がるのを避けようとする自衛意識の表れだろうか。
仕事に戻ろうとしたところで聞こえてきた足音に、アッシェンドラの獣毛の生えた耳がピクリと動いた。彼女の耳は、部下ひとり一人の足音をほぼ完璧に聴き分ける。
特に、この足音の主だけは聞き間違える事はないと、彼女は思っていた。
やがて、執務室の外で足音が止まる。
「失礼いたします」
「マアトートか。どうした?」
相手が名乗る前に名前を言い当てて見せると、微苦笑と
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