学校へ行きたくなくなったのは、いつの頃からだろうか。
決して友達との関係に悩んでいた訳でも、勉強についていけなくなった訳でもない。ましてや、いじめを受けたなどという事は一度たりともなかった。
切っ掛けとして思い当たるのは、一つの噂。
私の両親は、いつの頃からかその関係が険悪になり、そう遠からず離婚する。そして私は、入江綾(いりえ あや)ではなくなる。それが、どういう訳か学校で広まったのだ。
口さがなく根も葉もない事を言う人もいたけれど、殆どの人は気を遣ってくれた。先生たちもクラスメイトも部活の仲間も。
しかし、話だけはよく聞くものの、実際に自分の周囲にそうある事でもないためか、やはり詳しく訊きたがる人も少なくない。そうして、そういう人たちが話を聞いてきたときは、普段は気を遣ってくれている他の人たちも、やはり聞き耳を立てているのだ。
無理もないとは思う。仕方ないというのも分かっていた。
けれど、やはり、そういうのは苦痛だった。だから私は、いつしか学校へ行かなくなり、知っている人に会うのも怖くなって外出もしなくなった。
――ピンポーン。
限りなく無音に近い両親不在の自宅アパートに、不意にチャイムの音が鳴り響いた。
その瞬間、自室のベッドに死体のように転がっていた私の、獣毛の生えた大きな耳がビクッと立ち、身体が強張る。
それだけで、もう、本来であれば心安らぐはずの家という場所で、自分がどれほどの緊張を強いられているのかが分かった。
リビングに家族三人が揃った事なんて、もう何ヶ月もない。けれど、その方が遥かにマシなのだ。揃ってしまったときの、切れる限界まで糸が張りつめたような無言の空気は、誇張抜きで地獄である。
まあ今では、暗黙の了解で三人が――特に両親が同じ部屋にいる事はなくなっているのだけれど。
そうなりそうになると、必ずどちらかが席を立つのだ。そして、いつしか私も、そうするようになっていた。
あ……応対に出なきゃ。
チラリと時計に目を向けると、時間は既に午後の四時半。おそらくクラスメイトが、学校で配られたプリントなんかを持ってきたのだろう。
「……やだな…………」
いつもなら母が代わりに出てくれるのだけれど、今日は私一人だ。
大人が相手なら、クラスメイトは用件だけ済ませて帰ってくれる。だけど私が出たら――しかも親が不在だと分かれば、また根掘り葉掘り訊かれるかも知れない。
被害妄想だろうというのは分かっていたけれど、それでも怖いものは怖い。引きこもる生活がその思いをより強固にしているのだとは思うが、だからといって外へ出られるのなら苦労はなかった。
私は、ノロノロと自室を出る。尻尾は元気なく垂れ下がっていた。撮影が行われていないときの、倉庫に仕舞われたセットのようなリビングやキッチンの風景を横目に、玄関のドアを開けた。
「――っ!?」
そうして現れた人物に、少しだけ驚いて息を呑む。
いつも届け物をしてくれるのは、近くではないものの私の家が通り道にある女子生徒だ。けれど今日、そこにいたのは――
「祐……くん」
「……元気そうだね」
少し意外そうに言ったのは、高瀬祐(たかせ ゆう)くん。私が小五で引っ越してきて以来の付き合いの、近所に住む男子生徒だった。
といっても、それほど親しくしていた訳ではない。小学生の頃の地区児童会の会長と副会長というだけで、中学に上がってからはプライベートな会話は数えるほどしかしていなかった。
「ああ、えっと……」
そういえば、学校には風邪をこじらせていると言ってあったのだ。嘘をつき通す必要もないし、そもそも、その嘘が信じられているとも思っていなかったが、何故か気まずい。
「まあ、治ったならよかった」
祐くんは殆ど気にしていないようだった。それから右手に持っていた、折り畳まれた数枚の紙を差し出してくる。
「これ、今日配られたプリント」
「……ありがと」
もう意味ないんだけどな、と思いながら受け取った。
それが顔に出ていたのか、祐くんは怪訝そうに首を傾げる。
「どうかした?」
「あ……ううん。何でもない」
そう、と彼は呟く。納得はしていないようだったが、それ以上は訊いて来なかった。
「じゃあ、お大事に」
「あっ――」
気がついたときには、私は踵を返す彼の袖を掴んでいた。縋るように、というのは比喩にはならないだろう。
「何?」
振り返る彼の顔に不快さはなく、その事に私は酷く安心した。尻尾が揺れている。
「あ、いや……あの……」
正直、反射的な行動だったせいで、自分でも何故そんな事をしたのか分からなかった。
軽くパニックになりながら口をついたのは、
「お、お茶……飲んでかない?」
祐くんは驚いたように目を見開いていた。私は自己嫌悪で死にたくな
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