満月に近い、明るい月の浮かぶ夜だった。
時間は夜の十一時を回っている。
誰もいない、非常灯の明かりだけが淋しく輝く小学校のプールだ。目を凝らすと、そのプールサイドには膝を抱えて座る影が一つ見て取れた。
少年だった。
小学生ではなく、高校生くらいだろうか。
彼は何をするでもなく、揺れる水面へ視線を向けている。時おり痛みを堪えるように唇を噛んだり、助けを求めるように瞳の奥を揺らしたりしていた。
ゆらりゆらり――水面が揺れて、歪んだ月が暴れる。覗きこめば、かすかに判別できる自分の顔も歪んでいた。
嗤っている、と彼は感じた。断ち切る事も出来ずウジウジとこんな所に蹲っている自分を、もう一人の自分が蔑んでいるのだと。
(……だったら連れてってくれよ)
逆さまな世界で嗤っているもう一人の自分へ、彼は助けを求めるように手を伸ばした。その途端、バシャッと水面が爆ぜる。
息を呑む暇もなかった。
水面から伸びた手が彼の手を掴み、そのまま水の中へと引き摺りこんだのだ。
全く想像もしていなかった状況だからなのか、頭は真っ白になっていた。どうするべきなのかを考える事も出来ない。大量に水を飲みこんだ。そのうちの一部は気管の方へ流れこむ。
周りが全て水なせいで咳きこむ事も出来なかった。浮上しなければと思っても、水を吸った服が体にまとわりついて動きを阻害する。
ようやく伸ばした手が壁に触れた。少年はそれを頼りに力ずくで身体を引き上げる。顔が水から出たところで、激しく咳きこんで水を吐き出した。
「何が……」
荒く息をつきながら、手首を掴まれた感触を思い出して周囲を見回す。すると、
「ふ……ふふっ……あはははは!」
すぐ近くのプールサイド――非常灯の明かりも届かない闇の深い場所から、少女の涼やかな笑い声が聞こえてきた。
「ごめんなさい。ちょっとした悪戯のつもりだったんだけど、苦しかったわよね」
笑いの成分を多分に残しながらも、少女は謝ってきた。
「別に、いいけど……」
本当は良くなかったが、少女の楽しそうな声を聞いていると、服がズブ濡れになった事など瑣末な事のように思えてくる。
翳っていた月が再び顔を出し、少女の姿が照らし出された。
髪はサイドこそ長いものの、後ろは白い首筋が覗く程に短い。目は大きいが、やや垂れ目――いつでも笑っているような感じだった。服装はキャミソールにミニスカートと、いかにも涼しげた。
「さっき俺を引き摺りこんだの、君?」
「うん。ごめんね? 何だか深刻そうな顔してたから」
深刻そうな顔してる奴を引き摺りこむなよ、とボヤきながら彼はプールサイドに上がった。少女からは少し離れて座る。
「こんな所で、こんな時間に何してたの?」
「……別に。そっちこそ何してたの」
「泳いでたのよ。ほら」
そう言って少女は、水面下に下ろしていた脚を持ち上げて見せる。だが、少年の目の前に現れたのは人間の脚などではなかった。
それは魚のような鱗の生えた下半身と、三日月のような尾びれだ。
「マーメイド……」
驚いて呆然と呟く彼に、マーメイドの少女は満足げに頷いた。
「……ていうか、何でマーメイドが学校のプールに?」
「昼間散歩してたら、子供たちが楽しそうに泳いでるのが見えたの。でも私たちには泳ぐのなんて呼吸と同じようなものだから、何が楽しいのか分からなくてね……。もしかしたら海で泳ぐのとプールで泳ぐのは違うのかと思って、忍びこんじゃった」
てへ、と些細な悪戯が見つかった子供のように、少女は小さく舌を出す。それを横目に、少年は親指でこめかみを揉みほぐしながら溜息をついた。
「どうしたの? 頭痛い?」
「……いや。マーメイドと散歩って単語が、どうしても結びつかなくて」
どうやってここまで来たのだろうと思っていると、ふふん、と少女は笑う。
「短時間なら、魔法で脚に変化させる事も出来るのよ――ほら」
ザバッという音と共に、少年の前にスラリとした白い脚が差し出された。
「凄いでしょ」
「うん……」
「何せ、陸を散歩したいがためだけに人化の魔法を習ったくらいだからね」
「……変わってるね」
「仲間内でも、そう言われてる」
少年が素直な感想を洩らすと、少女も苦笑を浮かべた。
「でも、喋れなくなったりはしないんだ?」
「あら、そこはかとなく知的な香りのする返し。そういうの、結構好きよ?」
冗談めかした少年の言葉に、少女は嬉しそうに笑う。
「どうも。けど、童話くらい誰でも知ってるよ」
「そっか」
お世辞として受け取ったらしい少年に、今度は少し残念そうな顔になった。
「それで――実際に泳いでみて、どうだった?」
少年の問いかけに、少女は思い悩むように唸った。
「よく分からない。海との違いなんて、塩素の香りと流れがない事くらいだし
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