「あ……」
そんな声が厨房に響いたのは、ある平日の午後の事だった。店舗の方で退屈そうに椅子に座り、足をブラブラさせていたアリスの少女――リオは、ピョンと跳び下りると、トテトテといった足どりで入口から顔を出した。
「どうしたの? お兄ちゃん」
厨房の中では、清潔感のある白い服にエプロンを着けた長身の青年が、ケーキなどの材料を入れておく棚の一つの前で、僅かに渋い表情をしている。
「材料が切れた」
表情ほどには感情を感じさせない、抑揚のない声で彼は事実だけを答える。その言葉にリオは、意外そうに目を丸くした。
「珍しいね。お兄ちゃん、いつも材料の管理とか完璧なのに」
確かに、しっかり者の兄――リクは、今まで材料を切らした事などなかった。だが、そんな彼が時々、妙なところで抜けている事をリオは知っている。
大概の事を一人でやってのけてしまう男性が時々やらかすオチャメな失敗は、大半の女性にとってはチャームポイントだろう。ご多分に漏れず、それを可愛く思ってしまったリオは、自然と微笑を浮かべていた。
「最近やたらアップルパイが売れてるからな……計算にズレが生じてる」
契約している農家から直接仕入れているリンゴだが、おかげで普段どおりの納入ペースでは間に合わなくなりつつあった。
「しょうがないよ。旬だもん」
店頭にも瑞々しく香りのいいリンゴが並んでいるのを思い出し、リオは苦笑する。
「ならアップルパイなんか食べないで、生で食べればいいんだ」
自分で作った物をなんか≠ニ表現する兄らしさに、リオは更に苦笑を深めた。そのアップルパイなんか≠ェ、どれほど人気か知らないのだ、彼は。
リンゴ本来の香りと酸味を前面に押し出した彼のアップルパイは、甘さが控えられている分、幾つも食べられてしまうのだ。今回のトラブルは、それ故でもある。
「で、どうするの?」
「しょうがないから買いに行って来る」
外したエプロンをぞんざいに丸めて椅子に投げるリクに、何か思いついたらしいリオは、彼の服の裾を引く事で振り向かせた。
「ねえ、だったらアタシが買いに行って来るよ!」
「いい」
即答、だった。
「何でー!」
当然、リオは猛然と抗議する。
「お前が一人で出歩くと、危なっかしい」
「また、そうやって子ども扱いするー」
「子供だろう」
「一つしか違わないよ!」
確かに実年齢ではそうだった。ただ、アリスであるリオは、どう見ても初等教育を受けている最中にしか見えないのだが。精神年齢も外見相応だという意見もあるが、これを言うとリオが本気でキレるので、リクは黙っておいた。面倒事は嫌いなのだ。
「もういいよ!」
そう言ってリオは買い物かごを引っ掴むと、ドスドスと足を踏み鳴らしながら、外へ向かう。
「おい」
「何!」
本人は怒っているつもりなのであろう可愛らしく頬を膨らませた表情で、リオは振り返った。
「お前は強盗にでも行くつもりか」
呆れたように言って、リクは財布を投げ渡した。
「数は十個。品種は、アップルパイに使うと言えば向こうが解る」
途端に機嫌を直したリオは、ぱぁっと表情を輝かせた。
「行って来ま〜す!」
元気に大きく手を振って、リオは出かけて行った。
カランコロン、というドアベルの音が鳴り響いたのは、それから間もなくの事だった。
「いらっしゃいませ」
それまでの無表情や抑揚のない声は何処へやら、リクは涼しげな微笑で愛想よく客を迎え入れる。接客時はそうすべき、という無慈悲なまでの分析から導き出された態度である。相手をもてなす気持ちなどなくとも、完璧に演じれば客は騙される。そもそも商品を売り買いする間だけの事なのだから、騙したところで何も問題はない。相手の目的は、あくまでケーキなのだし。
入って来たのは、茶色い髪を肩にかかる程度に伸ばした女性だった。
「こんにちは、リクさん。また来ちゃったわ」
「いつも、ありがとうございます」
常連の彼女とは幾度となく交わした会話である。
「そういえば、今さっき妹さんとすれ違ったけど……」
「ええ。お遣いを頼みました」
「……大丈夫かしら」
「本人は、大丈夫だと言い張ってましたよ。だから何かあっても本人の問題です。実害もありませんし」
しれっと言うリクに、女性客は困ったような苦笑を浮かべた。
「あらあら、酷いお兄さんね。それとも、信頼しているのかしら?」
「義理は既に果たしていますからね。いちおう警告はしましたが、サービス過剰だったかも知れません」
よく解らない事を言ったリクは、そこで話題を切る。これ以上は他人に言うような事ではないと思った。
「今日は何になさいますか?」
「そうね……ミルクレープと季節のフルーツタルトを貰おうかしら。それから、メロンパン二つ」
かしこまりました、と言ってリクは厚紙で出
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