店主と感情

「おはようさん」
「・・おはよう」
久し振りのまともな寝床で熟睡したリン、
結局悶々としたまま一睡も出来なかったアレク。
「・・ひどいクマが出来ているぞ」
「わかってる」
昨晩の一件が原因だということくらいはリンもわかっている。
しかし、アレクまでこんな事をしてくるとは。

「・・アレク」
「・・何?」
少し気まずいな、とアレクは頭の中でつぶやいた。
事もあろうに夜這いまがいな事をして、挙句この有様。
これで気まずい空気を感じない方がおかしい。
「頼むから俺にああいう事をしないでくれ」
「・・私が嫌いなのか?」
こうなったらとことん問い詰める。
アレクはそう決心するが、リンの答えはあまりにも斜め上過ぎた。

「好きとか嫌いなんて気持ち・・感情っていうやつはな、
俺にはもう殆ど残っていないんだよ」
嬉しい、悲しい、怒る、楽しい、好き、嫌いを失った。
「俺の店な、俺の性欲や精力を吸って維持しているんだ」
「・・どうして?」

思えば、リンの店はどこか不思議な空間だった。
外が寒くても暑くても、一歩店内に入れば快適な空気。
大気の精霊や魔法を使ったのとは違う感覚。
店の規模に対して異様に広い倉庫。
よく考えれば考えるほど、そこは不自然な場所だった。

「ユーリアにな、売ったんだよ」
「え?」
リンは続ける。
あのバフォメットに依頼して、精を代価に店を作ったのだと。
それだけでは足りず、以前の思い出と感情の大半を
ユーリアのつてで好事家に売ってまで始めた商売なのだ、と。

「だからなアレク、俺は抜け殻みたいなもんだ。
今この場でひん剥いて犯しても、これっぽっちも勃たないんだぜ?」
リンは笑っていた。だけど、乾いた笑いだった。

「そういう事でな。俺を興奮させようとしても興奮できないし、
なによりそっちに気が回ったら店が消えちまう。
店が無くなったら、俺は商売あがったりだからな」
「どう・・して?」
アレクの目には大粒の涙。
もっと簡単で手っ取り早い方法なんかいくらでもある。
敢えてそんな事をするのか、アレクにはわからない。

「なあアレク」
死んだ目のリン。
「お前さんは、一番信用していた人に裏切られたらどう感じる?
・・俺はな、あんな気持ちには二度となりたくないだけなんだよ」
「裏切る・・って?」
足取りが重い。リンの周りだけ、どす黒い空気がまとわりついている。

「文字通り、だ。散々信用させておいて、飽きたからってハイさよならだ。
──つまんなくなったから、とも言っていたな」
アレクの知らない、昔のリン。
どれ程の出来事があったのだろうか。
「それこそつまらん昔話はおしまいだ。中央に着いたぞ」
10/07/11 21:57更新 / 市川 真夜

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