陽に融ける氷

 カオルとゼミの内容について話しながら角を曲がると、廊下の向こうから歩いてくるタカシの姿が目に入った。私は無言で踵を返すが、その前にタカシの目が私をとらえた。日に焼けて岩のように黒くなった彼の顔がたちまち緩んでいく。

「リョーコ! 好きだ! 結婚してくれ!」

 最後にそう絶叫して、タカシは私たちのほうに駆け出してきた。周囲の学生がタカシの声を聞いて顔を向ける。そして引きつった笑みを浮かべながら壁際に退いた。彼らの気持ちは理解できる。身長190cmの大男が叫び声を上げて突進してくるのだ。誰だって道を譲るだろう。もっとも、たとえ進路上に立ちふさがる酔狂者が現れたとしても、タカシはその障害物をたやすくなぎ倒すだろう。スポーツ推薦で入学したタカシは、去年の秩父宮で同じ体格の人間をなぎ倒してトライを決めた。
 隣でヤバいと言ううめき声が聞こえた。視線を向ければカオルが顔を真っ青にしていた。こうなったら仕方ない。私は歩を戻すと肩をすくめてからタカシに向かって駆け出した。駆け寄ってくる私の姿を見て、タカシの瞳が輝きを増す。私を受け入れようと彼の腕が広げられた。露になった彼の胸元は、シャツ越しでも分かるほどに分厚い胸筋に覆われていた。遂にタカシの顔が目の前に迫り、彼が私を抱き止めんと広げた腕を閉じる。その刹那、私は彼との身長差を利用し、腕の下を潜り抜けた。そのまますれ違いざまに彼の顔にカバンを叩きこむ。筋骨隆々の彼の上体がぐらりと揺れた。それもそのはず。カバンの中にはゼミで使ったトルストイが入っているのだ。日夜ラグビー場で男たちと体をぶつけあう彼であっても、ロシアが生んだ大文豪には敵わないようだ。そのままタカシは床に崩れ落ちた。

「廊下でいきなり叫ぶんじゃないわよ。恥ずかしいったらありゃしないわ」

 顔を抑えて床を転がるタカシに向かって吐き捨てる。遅れてやってきたカオルが恐る恐ると言った様子で聞いてきた。

「リョーコ、ここまでする必要なかったんじゃないの? タカシさん大丈夫?」
「いいのよ。魔物娘に惚れてるんだからそんな柔じゃないわ。むしろ一回ぐらい死んで反省すればいいのよ」

 そう言いながら、私はタカシを見下ろした。今でこそロシアの文豪の一撃によってもんどりうっているが、すぐに回復して懲りもせずにまた私にアタックをかけるのだろう。タカシと知り合ったのは小学校に入る前からだ。その生態は辟易するほどに知っていた。
 腐れ縁の始まりは単純に家が近所ということだった。当時のタカシはやんちゃなガキ大将で、一緒に遊ぶのも楽しいものだった。だが、友達同士という関係は思春期に入って変わった。色を覚えたタカシは魔物娘の魔力に魅了され、私に言い寄るようになったのだ。熱いモーションと言えば聞こえはいいが、体躯のわりに全く成長しなかったタカシの知性はそれをセクハラ紛いの好意に変換させ、ただただ私を辟易させるだけだった。何度断っても挑戦してくるタカシの執念は恐ろしく、私が彼の学力では到底かなわないであろう偏差値の大学を選んでもスポーツ推薦で滑り込んできたのだ。かくして大学デビューしてもなお腐れ縁の彼に脅かされる日々を送ることになった。タカシの大学合格の報を聞いても負けた気がして志望を変更しなかったことを今では後悔している。
 眼下でのた打ち回っていたタカシの叫びがぴたりと止まる。顔を覆う手の隙間から私を見上げると、彼はにんまりと笑った。

「黒!」
「死ね!」

 スカートの中に視線を向けてだらしなく頬を緩ませたタカシの顔に私はサンダルを叩きこんだ。8cmの厚底によって鼻柱を打ち抜かれたタカシがまた悲鳴を上げて転げ回る。これで懲りてくれればいいのだが、頑丈なのが取り柄のタカシはこれでも懲りないのだろう。いっそのこと無視できればいいのだが、一度やってみたところ偏執狂染みた彼の執念により丸一日纏わりつかれるだけだった。今日は大切な用事がある。せめてこの場くらいはビシッと言って断ち切らねば。

「何度も言ってるけどアンタの話に付き合う気はないわ。そもそも今日はこれからコンパがあるの。相手はベンチャー企業の社長さん。私を振り向かせたかったらこれぐらいの男になってから言いなさい。じゃあね」
「ちょっと待てよリョーコ」
「うるさい!」

 私が手を振って踵を返すと、背後でタカシが追いすがった。秩父宮仕込みのタックルが来る前に、私は振り向きざまに指を振った。私の指先が青色の光を帯びて空に軌跡を残す。途端にタカシの身体が凍り付いた。比喩ではなく文字通りタカシの身体が氷の中に閉じ込められる。その姿を見てカオルが目を白黒させた。

「わーっ! タカシさん大丈夫ですか!?」
「大丈夫よ。死にはしないわ。魔物娘の魔法だもの」

 魔法に馴染みが薄いらしいカオルに向けて私は答える
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まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33