グラウンドでは珍しく男子サッカー部が紅白戦をしていた。対する他の運動部はと言うと、数少ない男子の雄姿を見るべく見物にいそしんでいる。パスカットやシュートのたびに、黄色い声援が沸き起こった。
僕は賑やかなグラウンドを眺めていた。それしかできなかった。情事を終えたとき、乱れた服を直す鏡子の姿を僕は見ていられなかった。僕は逃げるようにグラウンドに目を向けた。
僕の背後では依然として鏡子が服を身に着ける衣擦れの音がしている。僕はその音を意識的しないようグラウンドの声援に耳を傾けていた。
「先輩……」
不意に背後から呼びかけられた。意識しまいとしていたが、彼女の呼びかけに答えないわけにはいかない。僕は言葉だけで答えた。
「なんだい?」
グラウンドで揺蕩っていた僕の視線が、遂に姉の姿をとらえた。補欠選手と一緒にベンチに座って試合の行方を固唾を飲んで見守っている。姉の視線の先にはきっと想い人がいるのだろう。
「もしお姉さんが先輩以外の誰かと結婚したとき、先輩はどうしますか?」
その質問に、僕の心臓が音を立てた。それはいつか訪れる未来。来てほしくないと願いつつも、必ず訪れる別れの話だ。
グラウンドで歓声が上がった。僕が見つめる姉も、感極まったのか立ち上がって喜んでいる。フィールドで何が起こったのかは見るまでもない。姉の想い人がゴールを決めたのだ。
僕は依然グラウンドに目を向けたまま答えた。
「祝福するよ」
姉の結婚式を僕は幾度となく想像した。合図ともに教会の戸が開き、父に手を引かれながら歩く姉。白一色のウェディングドレスを着てバージンロードを歩く姉の姿はとても奇麗なのだろう。やがて新郎の下にたどり着いた姉は、顔を隠すベールを取り払い、化粧によって更に美しくなった顔で微笑む。そして神父の前で永遠の愛を宣誓し、新郎と誓いのキスをする。僕はそれを遠くから眺めているのだ。
「精一杯の祝福の言葉をかけて、笑って送り出す。だって、姉さんの晴れ舞台なんだから」
僕が夢想する結婚式では、姉はいつも幸せそうな笑顔を見せていた。ならば言うべきことは一つだ。おめでとう、そういって祝福するのみだ。相手は姉が幸せになれると確信し、決断して選んだ男だ。ならばその男が僕じゃなかろうと、僕は祝福するまでだ。心の奥で抱き続けた男としての姉への想いを押し殺し、家族として姉を祝福する。それで姉が幸せでいられるならば、それ以外は不要だ。だからこそ僕はいつだって観客席にいる。夢想する世界ですら、僕は姉の隣にはいない。
「姉さんが笑っていられるなら、それで十分だ。だから、僕は笑って送り出すよ」
グラウンドで笛が鳴った。どうやら紅白戦が終了したらしい。ベンチで座っていた選手が立ち上がってフィールドに向かっていく。その一団の中に姉の姿もあった。姉は一礼を終えて散らばる選手の中に分け入ると、まっすぐ想い人のところに向かった。試合でいいところを見せた彼に、手にしていた水筒を渡す。すると周りで囃し立てる声が上がった。対抗するように姉が怒った声を上げる。ふと想い人が姉に近づくと突然姉を抱き締めた。途端に周囲で歓声が上がった。男子部員のならず、フィールドの外で見守っていた観客たちすら声を上げる。当惑するように振り回していた姉の腕も、やがて観念したかのように想い人を抱き締めた。その光景に僕は未だに心の奥で澱む何かを感じずにはいられない。それでも僕は自分に刻み付けるように二人の抱擁を眺め続けた。
ふと、背後で空気が揺らいだ。
「私も、同じです」
そう言って鏡子が上履きの音を立てた。背後でコツリコツリと響くその音は、一歩一歩着実に僕の下に近づいてくる。僕は振り返ることなく耳だけを澄ませた。足音は僕のすぐ後ろに到達した。
「先輩が笑っていてくれるなら、それで十分です。他に何もいりません。それに――」
唐突に背後から伸びた腕が僕を抱えこんだ。後ろから抱きつく鏡子は、僕の耳元に口を寄せる。そして――
「先輩はちゃんと私の名前を呼んでくれました」
――そう言って、鏡子は僕を抱く手に力を込めた。
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