四ツ辻の吟遊詩人

 この街には吟遊詩人がいた。唐突に表れた彼はその奇怪さからすぐに街の皆に知るところとなった。まずは服装だ。碌に洗っていないと思しき彼の外套は泥や垢で茶色く薄汚れていた。髭や髪も当然というように伸ばしっぱなしだ。こんな身なりで酒場の門を潜れるのか疑わしい。だが彼に対してそんな心配をする必要はなかった。彼は市場近くの四ツ辻に腰を据えると、いつもそこで歌っていた。彼の歌声のお供をなすリュートもまた彼の装いに負けず劣らずくたびれていた。弦が切れていないことが奇跡と思えるほど年代物のリュートをかき鳴らす彼の姿は、乞食が拾いものの楽器で遊んでいる様にしか見えなかった。だからこそ、市場に歌声が流れてきたとき、その主が彼であるとは誰も信じることができなかった。
 声の美しさに等級を定めるならば、彼の声は正に一等級だった。市場の喧騒の中を清流のように伝わるその歌声は、柔らかな感覚と共に耳朶に捕まり、主張過ぎもせず、されど周りの騒音に気圧されることもなく堂々と耳奥まで歩いてくると、まるで旧知の友の訪れの様な親しげなノックで鼓膜を震わせた。市場を賑やかしていた喧騒はたちまち歌声にとってかわった。威勢よく値を張り上げていた露天商すらも息を呑んで歌声に耳を傾けていた。歌の出所を探そうと辺りを見渡すと、四ツ辻の角でリュートを掻いている乞食がいた。幾人かが彼に野次を上げた。せっかくの歌声がお前の声で聞こえなくなってしまう、と。だが、よくよく耳を澄ましてみると、どうもその乞食の方から歌声が響いてきている。近づいてよく見れば、腕の動きとリュートの旋律が一致する。乞食が味噌っ歯をむき出しにして口を開くと、皆が聞きほれた歌声が流れるに至って、遂にこの歌声の持ち主であると確信したのだった。
 市場の人間の関心を一堂に受ける彼は、恋の歌を歌った。もっとも、彼は常に恋の歌を歌っていた。それは恋に目が眩んだ人が巻き起こす楽しい物語であり、あるいは叶わぬ恋に身を焦がす悲しい物語の事もあった。だが、その時歌っていたのは、彼が一番よく歌う愛を告白する歌だった。
 
――君を愛している、この身の続く限り
 
 思い返せばありきたりで歯の浮くような歌詞である。だが、彼の歌声に乗ると、途端に誰をも魅了する官能的な言葉に変わった。耳から入ったその言葉は遠い昔に忘れ去ったはずの青春時代の記憶を呼び起こし胸の奥を熱くさせる。胸の高鳴りはやがてリュートの伴奏と位相を一致させ、彼の歌の世界に我々を引き込んでいく。その先には、想い人に想いをぶつけようとする不器用な男がいる光景が広がっていた。私は彼に想いをぶつけられる側か、はたまた彼に感情移入し想いをぶつける側か。いずれにせよその歌は遥か昔に過ぎ去った甘酸っぱい記憶を想起させた。
 歌に聞き惚れていると不意に袖口を引っ張られた。目を向けると年の若い女性が頬を赤らめながら私の袖をつかんでいた。無意識だったのだろうか、ぼんやりと詩人を見つめていた彼女は、私の視線に気づくと驚いた風に謝罪の言葉を告げですぐに手を引いた。もしかしたら彼女は詩人の歌に感化されてしまっていたのかもしれない。かく言う私ですら頬を赤く染めてうつむく女性の姿に普段は枯れていたはずの想いが沸き起こっていた。若い時分ならば衝動に身を任せて彼女の手を取っていたのだろう。だが、そうするには私は年を取りすぎていた。そもそも私はその時すでに妻子がいた。私は市場の用事を切り上げるとまっすぐ家に帰り、数年ぶりに妻を抱いた。
 
 詩人が表れて程なく街に恋の風が吹いた。市場での雑談、街角でのお喋り、路地裏で秘かに交わされる噂話、その内容がいつの間にか恋の話にすり替わっていた。やれ肉屋の倅が仕立て屋の娘に惚れているだの。パン屋のお嬢ちゃんが郵便配達夫に気があるだの。誰もが他人の恋路を気になった。かくいう自分はどうなのかと聞かれたら、顔を赤くして口を噤むのは独身の証。我々既婚者はにんまり笑って伴侶相手の惚気話を語るのだった。
 そうこうしているうちに街を行き交う人々に男女連れが目立つようになった。今までは仕事で一人黙々と歩いていた人たちが、いつの間にやら男女二人となってゆっくり歩くようになった。腕を組んで歩く妙齢の男女の姿があれば、老齢の夫が足の悪い妻に速度を合わせて散歩している姿もあり、さらには色を知らぬはずの子供たちですら手をつないで駆けていく始末だった。
 気が付いたら町が華やいだ雰囲気になっていた。街を歩く男女は折角の逢瀬のために意気込んで着飾っていた。恋人のいない者はそれこそ想い人を射落とさんが為により一層着飾っていた。だが、何よりも街の空気を換えたのは彼らの笑顔だった。並んで歩く彼らは一様に幸せそうな笑みを浮かべ、周囲にその幸福を振りまいていた。街には彼らの溢れる笑顔で満たされていた。
 町
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