第三章 雇用継続判定

 かつてルーの主だった大悪魔のトリスさんを応接室に通す。茶を出すためにルーが現れると、トリスさんは俺と二人きりで話がしたいと耳打ちした。人払いをするところから、この大悪魔がただの商談で訪れたわけではないのは明らかだった。

「この茶はルーが淹れたのかの? 久しい味じゃ」
「ええ、お茶出しを始め、家事はあらかたルーに頼んでます。お陰様で俺も店のことに専念できてます」
「その様子じゃとルーは上手くやっておるようじゃの。ルーは粗忽者ゆえ、わしも少々心配しておったが、杞憂じゃったの」

 ルーが淹れた茶に舌鼓を打ちながら話すトリスさんの口ぶりはまるで旧友の近状を伺うにこやかだ。だが、それならわざわざ当事者たるルーを部屋から外す必要はないだろう。本題は別にある。何か裏がある。俺の第六感が警告を上げていた。街角の小さな薬屋とはいえ、俺も店の主だ。商人の感は持っているつもりだった。それなりに修羅場を潜り抜けた自負だってある。

「ガストンよ、ルーを引き取ってくれたことについて、わしからも礼を言おう」
「いえ、礼には及びませんよ。今じゃこっちが助かってる側ですから」
「そうかそうか、ルーも良い主に拾われたものじゃの。してガストンよ、悪いんじゃがそのルーを返してもらえんかの?」

 聞き間違いだろうか。極めて身勝手な言葉が聞こえた気がする。目を細めながらお茶を啜るトリスさんの表情に変化はない。彼女の言葉はまるで時候の挨拶を交わすときのように朗々としていた。

「どうかの? ルーを返してくれぬか?」

 カップをソーサーに載せながらトリスさんは続けた。ようやく俺も彼女が何を言っているのか理解できた。この大悪魔は自分が追い出した忠臣を詫び一つ入れず引き戻そうとしているのだ。

「はて? 新婚生活を邪魔をしてもらいたくなかったからルーに暇を出したと伺っています。今戻ってもお二人の生活に水を差してしまうだけでは?」
「その通り。新婚家庭にお邪魔虫はいらんというて追い出したのはわしじゃ。愛しの兄様と二人きりになるためにも、家事はすべてわしがやると意気込んでおったんじゃが、あの屋敷は広うての、わし一人では手が回りきらんのじゃ。最近は兄様にまで迷惑をかけるようになってきての、流石にこのままではいかんと思うて、こうして恥を忍んでやってきたんじゃ」

 己の不義を語るトリスさんは依然として鷹揚な笑顔をたたえていた。恥ずかしいと言いながら話す口ぶりは穏やかで、恥じらいを決して感じさせない。自身の汚点をおくびにも出さないその態度がむしろ癇に障った。これで当然の権利のようにルーを返せと言われては、俺も黙ってはいられなかった。

「いくら何でも都合がよすぎやしませんかね。一方的に追い出しておいて、問題があったら謝りもせず戻って来いというのは。流石に身勝手じゃないですか?」
「然り。謗られるのも覚悟の上じゃ。じゃが、ガストンよ――」

 俺が上げた言葉を、トリスさんはあっさりと受け止める。妙な肩透かしを感じたところでトリスさんは俺を見据えて言った。

「それはお主が言うべき言葉かの?」

 突然の問いかけ。その答えは、射竦めるような瞳によって遮られた。一拍遅れて反駁の言葉が思い浮かんだが、その前に大悪魔が畳みかけてきた。

「ならば問おう。お主はルーの何じゃ? ルーの気持ちの代弁者か? それとも、ルーの一挙手一投足を決める主人とでも申すのか?」

 その問いに、俺はルーとの関係を思い出した。家主と居候。善意で家に泊めてはいるものの、明確な雇用関係や主従関係は交わしていない。家事についてならば、俺も家主として口を出せるだろうが、家の外、ことルーとトリスさんの関係については部外者である以上、俺が口を出す余地は存在しなかった。思いついた反論も吐き出す口を塞がれる。

「なればこそ決めるのはルーじゃ。わしを謗るのも罵るのもルーがやることじゃ。お主にとやかく言われる筋合いはないわ」

 追い打ちをかけるように大悪魔が喝破する。もはや俺は押し黙ることしかできなかった。

「このことルーに頼むぞ。流石のわしもルーに合わせる顔がないからの。明日また来る故、良い返事を期待しておるぞ」

 最後にそう言って、トリスさんは席を立った。商談のために幾度となく訪れたせいだろう、大悪魔は応接室を勝手知ったる風に出ていく。その後姿を俺は何も言えないまま見送った。


 その晩の夕食時に、俺はトリスさんの言葉をルーに伝えた。トリスさんがルーを必要としていること。一方でその際に謝罪の言葉はでなかったこと。あくまでもこれはルーが考えることで、俺が口を挟むようなことではないこと。全てをそのままルーに話した。ルーは始め驚いてはいたが、話を進めていく内に口数が少なくなり、最後には目を伏せて何も言わなくなった。


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