痛み止めの量も順調に減っていたある日のこと。話をしようと言いだしたのは彼女だった。
「んなこと言ったって、おまえさんは『話さなくてもいい』じゃないか」
ベッド脇のテーブルに置いたスープかき混ぜながら俺は素直な感想を述べる。彼女は苦々しげな表情を作り、かと思うとしょんぼりした様子で俯いてしまった。
正直に言うと、しまったと思った。全くこの口は、どうしてこうも余計な事を垂れ流してしまうのか。
すまん、と言おうとした時だった。彼女は顔をあげ、決意の表情で口を開いた。
「あ、あ…あ、り……あ…ぅ……!」
とぎれとぎれの音がその口から流れ出した。少女らしい、高く澄んだ音だった。
どうやら上手く喉から声が出ないらしい。当然だ、彼女は今まで喋る必要がなかったのだから。だが、何が言いたいかは分かる。
あ り が と う
ぎこちなく動く彼女の唇は、確かにそう言っていた。
声に出さずに心の中で確認すると、彼女はそれにこくこくと肯いた。そして何とか完成した言葉をひねり出そうと、必死の形相でまた唇を動かし始める。
俺はスプーンを置いて、くしゃくしゃと彼女のブロンドをかき混ぜた。光の輪を遮ると、その部分がまるで陽に当たったように温かくなった。
びっくりさせてしまったようで、彼女は目をつぶり、肩をすくめる。そしておそるおそる片目を開け、俺の表情をうかがった。
「そうだな、努力は認めよう」
おどけた調子で言うと、彼女は複雑そうな顔をした。褒められて嬉しいのが半分、『努力賞』に対する不満が半分、といったところだろうか。ちゃんと言えるんだからもう少し待て、とでも言いたげだ。
俺は口の端を吊り上げて見せた。
「無理すんな。まぁ、まずは簡単なところからいこうじゃないか」
彼女が不思議そうに小首をかしげる。
俺は彼女にわかりやすいようゆっくり口を開いた。
「カ・ル・ロ」
「?」
俺は鼻を指さしながら繰り返す。
「カ・ル・ロ。カルロだ」
何を表すか感づいたのか、彼女は懸命に口を動かしはじめた。
「か…う…お!かる…お!」
「おー、おしいおしい。舌を使え、舌を」
「かーお…かるろ!」
「んーよくできました」
どうだ、と自慢げな表情の彼女を再びくしゃくしゃと撫でてやる。
しかしまあ呆れたもんだ。昨日今日会ったわけでもないのに、互いの名前も知らなかったのだから。
「カルロ。カルロス-アラン-ネラブルツ。しがない画家だ。よろしくな天使(アンジェ)様よ」
「かるろ…」―ですね―
やれやれ、器用な話し方をしやがる。
彼女は口に続いて心で言葉を紡ぐ。頭の中に響くその声は、まぎれも無く先程彼女が紡いだ声と同じものだった。
「食前の準備体操は終わりだ。ほれ、食え」
改めてスプーンを持ち、ひとすくい彼女の口に運ぶ。肩羽の天使は、おずおずとそれを含んだ。
―…おいしい―
彼女は誰に言うでもなく呟き、微笑む。その微笑みには少女らしからぬ高潔さがあり、それでいて儚く消えてしまいそうな美しさがあった。
俺は図らずも息を詰め、見入ってしまった。まぎれもない天使の微笑みだった。
描き留めなければ。俺の中の画家の血が叫んだ。俺は素早く心の耳を塞ぐ。今は彼女の食事中だ、と。俺はそこまで、他人を蔑ろにするほどの芸術バカではないのだ、と。
だが、ああ、この手にあるのがスプーンでなく木炭であったなら。そしてこの手の届く所に紙切れでもあれば。そうすればこの…。
すると彼女は視線を俺に移し、少し恥ずかしそう頬を染めて言った。
「…」―そんなにほめられると、はずかしいです…―
「…」
俺はスプーンの柄を咥え、空いた左手で勢いよく窓を開けた。そのまま腕一本を頼りに窓から乗り出し、空を見る。雲ひとつない快晴だ。聞こえるのは鳥の鳴き声と木々のざわめきのみ。今日も森は平和だった。
おかしい。ファニーではなくストレンジの方で。
「か、かるろ?」―どうしたんですか!?―
「生意気だった天使様が妙にしおらしくなったから、てっきり終末が来るかと」
「うぅーーー!!」
彼女は額にしわを寄せて唇を尖らせ、体を揺すって唸り声をあげて見せた。先程の微笑みが嘘のような、子供みたいなそぶりが俺には可笑しくてしょうがなかった。
「どうした!?スープが喉に詰まったか!?」
―そんなわけないでしょう!もぅ!!―
ぷい、と彼女はそっぽを向く。
俺の頬が自然と緩んだ。
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[1階 新アトリエ]
「ある日、天使を拾ったんだ」
「ま、ぜんぜん神々しくなかったがな」
「何と言ったものか…ほれ、死んだ人間が地上に来る時輪っかとかつけて…死霊?そう。そういったものかと。何故って、お前の言う真っ白で光り輝き頭に輪があ
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