板金工アリオンは夜の町を駆けていた。
少なくとも彼は夕方には工房を出た。いつもならばまだ家々には灯がともり、酒場や食堂からは賑やかな男女の声が聞こえてくる筈だった。
しかし今はどうだろう。家々の鎧戸は閉まり、まるで夜の森のように町は暗い。頼りになるのは頭上で煌々と輝く満月だけである。聞こえるのは靴が石畳を鳴らす音と道具袋が揺れる音、そして自身の荒い息のみ。
悲鳴じみた唸り声とともに息を吐き出し、生温い空気をかき分けて角を曲がった。
彼がシュナイネに移り住んでもう5年になる。
この町の構造は当然頭に入っているのだが、今自分が何処を走っているのかがわからない。あたかも箱庭の迷路を永久に逃げ回っているようだった。
逃げる。そう、彼は逃げている。
音もなく追ってくる、『それ』から。
「チクショウ…どうして、どうしてこうなったっ!」
いつも通りに工房を出たアリオンは、いつも通りの家路を急いでいた。彼が家に辿り着くには一か所、人気のない路地を通らねばならない。とはいえ誰かに襲われるおぼえもないし、大声の一つでも出せばすぐに人が来るような場所だったので今まで特に警戒することは無かった。
だが今日、『それ』がそこにいた。
「…シュナイネ領、マテウス工房所属板金工、アリオン・プロフノウですね」
『それ』は彼が彼であることを確認すると、襲いかかってきた。
…いや、この言葉はいささか適切ではなかった。
正確に言えば、『それ』は彼に襲うように強要したのだ。
「いてぇっ!!」
『それ』を気にして後ろを見ながら走っていたら、何かにぶつかった。
壁。
三方を壁に囲まれている。行き止まり。またの名を、袋小路。
「マジかよ…オイィ!」
おかしい。この町にこんな場所は無いはずなのに。
真っ白な壁にぺたりと張り付いてみる。縁に手は届かない。だがはるか頭上というわけではなく、ジャンプすれば指先ぐらいは引っ掛かるかもしれない。僅かな希望を胸に助走をつけようと来た道を振り向いた、その時だった。
いた。
月下に佇む『それ』。
「逃がしませんよ、板金工アリオン」
凛とした声が響く。
一歩一歩、ゆっくりと近づいてくるそれは、まぎれもない女の姿をしていた。
「荒っぽくするのは好みません。大人しく、私の言う通りにしなさい」
「いやだっ…!絶対に嫌だ!」
アリオンは後ずさるがすぐ壁に阻まれる。女は変わらず悠然と歩いてくる。
「言った筈だ…俺に、そんなことは出来ない!!」
「諦めなさい。逃げ場はどこにもありません」
「畜生…畜生!」
「さあ!」
突如、女はアリオンの前でその身を投げ出した。汚れるのも気にせず石畳に顔を擦り付け、アリオンとは別の理由で荒い息を吐きながら言った。
「踏みなさい!!」
「嫌だああァァァァッ!!」
………
人々が一日の業を終えて互いの労を酒によってねぎらっている頃。そんな彼らの上を駆ける影があった。
月光に照らされる石瓦の上を音もなく走り、屋根から屋根へと山犬のように跳び移る。
町中を縫うように駆ける影は、やがて目当てのものを見つけた。白塗りの壁に囲まれた袋小路である。
壁の上に音もなく舞い降りると辺りをうかがう。
間違いなく、この町には無い場所だった。見知らぬ袋小路は素知らぬ顔で、さも当然のようにそこに横たわっていた。
影はフードと覆面を取り払い、右耳につけたイヤリングに触れる。血のように紅い宝石が闇の中で妖しく輝き出した。
「セニョリータ、聞こえますか?こちらヘクトル」
影、シュナイネの猟犬ことヘクトル・ヴィッセンが囁くと、宝石から別の声が返ってきた。
「うむ。感度良好。魔術障害無し。…間に合わなかったか?」
威厳のある若い女性の声。ヴァンパイアにしてシュナイネの領主であるグレーフィン・エレオノーレ・フォン・シュナイネの声である。
「いえ、間に合いました。観測地点に到着。まだ消えてません」
ヘクトルは次いで左の耳につけたイヤリングに触れ、すこし首を回して道に向けた。透明な宝石が輝き、彼の見ていた光景を送る。
汚れ一つない壁は妖しく月光を反射し、足元の煉瓦は今日敷き詰められたばかりのように真新しい。何より、ここは町の喧騒が嘘のようである。
「だが現行犯で確保とはいかなんだか…。まあいい、時間がなさそうだ。急いで調べろ」
「承知しました」
ヘクトルは壁の上から音もなく下りると調査を開始した。壁に触れ、空気を嗅ぎ、這いつくばって石畳を見る。
彼は石畳のわずかな溝の間に残るそれを見つけた。
「セニョリータ、見つけました。黄土です」
「…やはりか。回収しろ」
「御意」
事件にかかわる物であるだけにきちんとした道具を用いて回収すべきなのだろうが、いかんせん時間がない。ヘクトルはマントの下
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