一目惚れなんてありえない。
少し前まで顔はおろか、存在するかどうかさえ知らなかった相手と恋に落ちるなんて、あり得ない。
人には優しいか、根性があるか、年相応の落ち着きがあるか。酒飲みではないか、賭博はやらないか、女癖は悪くないか。過去に不審な点は、やましいことをしていないか。
それらを全て知りつくし、吟味した上で言うべきなのだ。この人が好きなのだと。
だから勘違いしてはいけない。これはあくまで調査だ。
あいつが、あの悪党がどんな男になったか。それを調べるための。
そう、あいつは悪党。私はあいつを逃がさな…あ、金平糖食べてる!
そんなもの食べたら虫歯になっちゃうよ!昨日も歯を磨かなかったんだから!
でも…にこにこ顔の天ちゃんかわいいなぁ…。
――――――――――
黄色い太陽を見たことがあるだろうか。伊井田天冶(いいだ てんじ)にはそれが見えた。
春の頃である。現代ならば三月の終わり頃とでも言おうか。肌寒い日が続いていたが今日に限っては温かく、太陽に顔が付いていればにこにこ顔になっていたところだろう。
その太陽が西の空半ばまで来た、午後であった。天冶はふらふらの身体で仕事をこなし、上司と同僚に挨拶をしてからこの長屋に来たところであった。
ここに、仙人がいると聞いて。
紹介してくれたのは彼の上司である。ここのところ彼を取り巻く怪異を何とかしてくれる、ということで。
「で、でも仙人様ですか?」
「うむ。本人は少し違うと言っていたが、まあそんなものだ」
彼女は少し誇らしげにそう言った。あいつならその道の達人だから、とも。
確かに、仙人となれば心強い。
しかし、と思った。しかし、仙人はこんな寂れた九尺二間に住んでいるのだろうか。普通は霊峰や雲の上にいるのではないだろうか。しかも『貸本屋』と何とも達筆な看板が出ているではないか。ついに疲労が頭にまで回ったかと天冶は目をこすり、続いて頭を叩いてみた。
看板は消えなかった。
「おいおい、若人。手前の身体は大切にしろよ」
その声に天冶は思わずわっと飛びのいた。彼の真横、明らかに数瞬前まで何もなかった所に一人の青年が立っていた。
男は紺の作務衣に身を包み、風呂敷に包まれた大きな箱を背負っていた。天冶の背丈ほどもあるだろう箱を、男は涼しげな顔をして背負っている。
顔。涼しげ、というのはあくまで表情の事で、顔のつくりでいうと『暑苦しい』というか『むさい』方だった。子供が筆で一文字を描いたような眉。垂れても切れてもいない目からは、ぎらぎらとした活力のようなものを感じる。
そうしてしげしげと男を観察している間、男の方も天冶の方を観察していた。
「俺は手が後ろに回るようなことはしていないんだが?」
「え?」
「奉行所の人間だろ?」
不信と警戒を僅かに滲ませた声だった。初対面の人間にそういう口を利くのはどうかと思ったが、考えてみれば天冶は戸口の前で自分の頭を叩いていたのだった。無理もない。
「いえ、おれ、いや私は上司にここに来るよう言われて」
「ああ、君か。お瑞の言ってた『イダテン』ってのは」
「じゃあ、貴方が?!」
「ああ」
よく来たな、と男が屈託のない笑みで言った。先に上司が話を通しておいてくれたことと、自分の不審者疑惑が晴れたことに天冶は安堵のため息をついた。と同時に、今度は天冶の中に不安が滲んだ。
「あの、吉田兼好殿。貴方は本当に」
「ちょっと待て」
「はい?」
「今なんつった?」
「貴方は本当に仙に」
「その前!」
はっと天冶は息をのんだ。確かに上司から聞いていたのだ。仙人の名前は、吉田兼好(よしだ けんこう)だと。確かに聞いたと思っていたのだが、間違えたのだろうか。
「えっと…吉田、兼好、殿」
急にがっくりとうな垂れた男は両手をぽんと天冶の肩に置いた。
「お瑞から聞いたか」
「は、はい」
「そうか…覚えておいてくれ。俺の名前は、吉・田・兼・好(きちだ かねよし)だっ!」
顔をあげた兼好には、怒りを無理やり押さえつけたつくり笑いが張り付いていた。その恐ろしさにひたすら頷く天冶から手を離し、兼好は入口に手をかけた。
「あんのアマ……いつか三味線屋に卸す………」
ぱーんと気持のいい音と共に戸が開けられた。そこから覗くのは、何てことのない長屋の一室。
実は天冶は少しばかり期待していたのだ。もしかしたら、扉の向こうには無限に広がる大広間があるのではと。だがそれも打ち砕かれ、天冶は更に不安になった。
「おい、戸口で片付く話じゃないだろ。入んな」
部屋の中から兼好が促す。
古人曰く、溺れる河童は藁をもつかむ。ここまで来てしまったのだから仕方が無い。心の中でえいやっと掛け声をかけて、敷居をまたいだ。
ここで、この伊井田天冶という男について少
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