中編

 その日から、本格的に私と捕獲したオス個体との生活が始まった。
 奴は相変わらず困り顔を浮かべているが、不思議と「帰りたい」とか、そういう事は言わなかった。もし言われたならば、私は取り敢えず森の入口までは案内してやる心積もりだったのだが、此奴にも此奴の事情があるのだろうか。
「うー、今朝も寒いねー」
 時は冬に差し掛かり、夜に限る事なく朝露さえも凍る季節だ。
 奴は呑気に呟きながら、着ているコートをきつく引き寄せる。
「餌だ」
 私は口に干し肉を含んだまま言う。
「……また、それ?」
 頷く。此奴はまた困り顔を浮かべる。私が此奴の腕を掴んで押し倒すと、此奴は諦めた様に微笑んだ。
「判った。判ったよ。……君には敵わない」
 大人しく、口を緩めるオス。私は此奴の唇に自身を重ね合わせ、そして口内の餌粥を吐き出して、食べさせてやる。
「ん、くちゅ、ぺろ、ちゅう……んくっ」
「んっ、ちゅっ、じゅるる……っはぁ……」
 舌に絡まる繊維も余す事無く、喉の奥に送り込んでやる。此奴は、弱い個体だから、其処までしてやらなければ満足に食事も出来ない。
 餌遣りの最中、未だにあの全身を痺れさせる様な感覚は付き纏っていた。それどころか、日増しに強まっていくのを感じていた。何度も何度も、これが一体何なのか考えていたが、結局の所判らず仕舞いだった。
 けれど、仕方ないのだ。此奴の餌遣りはこうしてやらなければならない物なんだと、本能が告げていた。だから、この感覚の正体も其れに準ずるものだと判っていた。私の中の本能と言うのは、長い時間、母から祖母、祖母から曾祖母、曾祖母からまた曾々祖母にまで至り、現在私にまで受け継がれてきた物だ。私と言う種族が子子孫孫にまで種を残して来た証だ。
 だから、仕方ないんだ。
「……」
 餌遣りを終え、口周りを拭う。
 冬の間、私は巣で丸くなり、この死の季節が頭上を通り過ぎるのを待つのみだった。しかし、今回はこのオスが居る。私はこのオスの面倒をある程度見なくてはならない。
「寒ければ毛皮を纏え」
 寒さで死んでもらっては困る。私は獲物から剥いだ皮を数枚纏めて奴に放った。
 すると此奴は、また性懲りもなく困った顔を浮かべるのだ。
「僕なんかより、君の方が寒そうだよ」
 そう言うと、此奴は徐にコートを脱ぎ、私の肩に被せて着たのだった。
 そして、私の手を握って、甲を柔らかく擦った。
「僕は君のくれた毛皮であったかいよ。ケド、君が寒がってちゃ意味がないよ」
「寒くなどない」
 こんな、自然の中で生きていけそうもない軟弱な個体から気を遣われるのは恥だ。思わず逆の事を言い放ったが、私の手は此奴の手に包まれていても、未だ震えていた。
 そんな私に対して、此奴はまた困った顔で微笑むだけだった。


 冬の間は備蓄しておいた食料で腹を満たす。私の何時もの過ごし方は予め大量に食べておいて季節が過ぎるまで目を瞑るだけだったが、オス個体の餌遣りの為に起き上がる必要が出た。それだけで、何時もの冬とは違う物だった。
 私は此奴がくれたコートに身を包み、此奴は私のやった毛皮で身を包む。此奴のコートは、未だに此奴が来ていた体温が残っていて、温かい。しかし、それもすぐに消え去っていってしまう。
 また手が震えて来た。なんとも口惜しい事だが、生物として当然の反応であるからどうしようもない。
「寒がりなんだね」
 此奴は殊勝な事に、ずっと私の手を揉みほぐして、温めようとしてくれていた。
「僕が君の毛皮を使ってる所為で……」
「関係ない。それを私が使おうが、手は震えるものだ」
「そうかな……そう言ってくれると気が楽だけど……あ、そうだ」
 此奴は何か思い付いた様に、私の羽織るコートの端を広げる。其処へ、自分の身体を捻じ込んで来た上、自分の被っていた毛皮の中に私を包み込んだのだった。
「こうすれば、お互い温かいよね」
 私と、此奴の身体が密着する。温かく、外の寒さを遮るコートと毛皮のドームの中で。私は足りなかった物がこうして揃った様な気分を憶えながら頷く。
 手の震えは止まっていた。此奴が握り締めていたからだ。
「……ねぇ、僕の話を聞いてくれる?」
 此奴は唐突に、そんな事を言い始めた。私は、返事はせず、目を閉じただけだったが、此奴は僅かに拍子を取ると、自然に語り始めた。


「   僕はね、こう見えて一応、貴族の産まれなんだ。といっても、田舎貴族だけど」

 此奴は、薬指に嵌められた指輪を翳す。

「つい、この前の事だよ。突然、知り合いと結婚する様に言われてね。それが嫌で、家出したんだ。僕は昔から昆虫が好きで、昆虫図鑑ばかり読んでいたから、折角だと思って森を散策していたんだ。……大好きな虫を眺めた後、帰るつもりだったんだ……。けど、ほら? 時期も冬に入る頃だったでしょ?
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