暫くして村の中に噂が立ち始めた。
やれ溺れた子供が不可解な潮流で岸に引き上げられただの、やれ突然水の流れが逆行して流された荷物が戻ってきただの、やれ湖に落とした斧を女神が拾って届けてくれただの。
誇張された事案もあるにせよ、皆が不思議がり、湖には何か得体の知れない者が住まっていると誰しも考える様になった。
一方、俺にとっては全ての事が誰の仕業であるかは明白であった。
「龍神様のお力じゃ」
噂が出始めた頃から御老公はその様に言っていた。
しかし村の若者や中年達の一切はそれを頑として突っ撥ねた。老人の戯言だと言うのだ。
「龍なんぞいやしない。あの湖には昔から妙な事が起こっていた。水面が天に昇ったり、雨が一箇所に降ったりもした事がある。今回の一切の件は全て偶然だ」
後から聞いた話だが、過去あの龍神が信仰を集める為に試みた事が、そういった不可思議な現象を起こして気を惹くという物だったらしい。結果こうして実にならぬ事態を引き起こしているのが皮肉なものだが。
「それより湖に化け物が出るらしい。最近の異変もそれによるものだ。早々に退治せねばならんのではないか?」
「それこそ龍神様じゃ。失礼の無きよう礼を尽くせ」
「何を言う、今更神や仏など、居る筈がないだろう」
「その通りだ。爺様達もいい加減迷信なんぞ信じるのではない」
若人達の言い分に若年寄り達も言葉を並べた。
御老公は、この時初めて苦い顔をした。何時もは真白に草臥れた眉と髭で表情が読み取れなかったが、この時ばかりは口元に黄色い歯が覗いた。
住まいに戻った後、御老公は俺にこう漏らした。
「平和が長く続き過ぎた。龍神様を信じるのは年寄りしかもうおらん。それ所か、人の身に余る存在に刃を向けようとする者ばかりとは。もうそんな儂等の事など、龍神様はお見捨てになられるじゃろうて……いや、それだけならまだいい。お怒りに触れて、何れ恐ろしい災いとなって儂等に天罰を下す事も在り得るじゃろう」
俺はその話に黙って俯いていた。
「隆広殿よ。お前さんは、どうじゃ?」
御老公が俺に向いて問い掛けた。眉毛の隙間からぎらりと眼光が光った。
「私は、目にした物のみを信じるばかりです」
「そうか」と御老公は答えた。俺が龍神を信じない、と受け取ったのだろう。彼は随分と寂しげに背を丸めた。
「そうじゃ。此処に住む龍神様の……昔話はまだしていなかったかのう」
そう言って切り出したのは、恐らく龍神が湖に住んだ初めの頃から言われていたらしい話だった。
「ある所に大層人を好く龍がおったそうな。けれど、自分は龍である事を気にして人と交わる事に怖気づいていた。そんなある日の事、一人の青年が龍の入り江に立ち、龍と顔を合わせた。忽ちその青年は龍と仲良くなり、やがて寂しがり屋な龍にこう提案した」
この湖を護ってくれるなら、きっと皆お前を好きになる。
「青年は故郷の湖が好きじゃった。それは、周辺に住む生きとし生ける者全てに恵みを与えておったからじゃ。じゃから、そんな湖を護る龍の事を神仏の様扱う事、そうすれば皆がお前に祈り、お前の事を想い続ける。そうすればきっと寂しくないじゃろう」
もし儂が死んだ後でも、寂しくないじゃろう。
「龍は、喜んだ。もうこれで寂しくなくなるのじゃと 」
御老公はゆったりと話し終えた。
龍は、喜んだ。もうこれで寂しくなくなるのだと。
……果たして本当にそうだろうか?
「御老公、本当に……龍は喜んだのでしょうか?」
「どういう事じゃ?」
「龍は……信仰の対象とされても、寂しかったんじゃないでしょうか。だって、誰とも語らう事などないのです。誰とも触れ合う事などないのです。それは、孤独となんら変わらないのでは、ないのでしょうか……」
御老公はほう、と息を吐いた。
「それは神のみぞ知る、と言いたい所じゃが……隆広殿の言う通り、それが身を裂く程寂しい事だとしたならば、神仏というのはなんと、辛い役目を追うお方達なのじゃろう」
「……」
先々代、水沢隆盛。
彼が残した寂しがり屋な龍へ残した形見。
……俺は、それが間違っていると断言したい。
それが今の状況を作り出している事を呪う。未だ龍を縛り付けるその制約を呪う。
けれど、理解はしていた。人と龍の年月は違う。それでもその龍の為にしてやれる事。自分が滅んでも残る物。そう追求した先に帰結した答えを軽んずる所か、俺は感服もしていた。
だから、こそ。
だからこそ許せないのだ。
今、こうして、現に。
あの龍が一人ぼっちでいる事が 。
――――――――――
あの男の言う事に倣って人助けをしているお陰で感謝の念が集まってくるのが判った。
一度水に尾の先を漬
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