前編

    其処は静かな水面(みなも)だった。
 俺の前にずぅっと広がる、藍にも似た澄み切った青を、誰にでもなく見せてやりたい気分になったが、最早俺には共に語らう家族も友もいない。陽射し差し、揺り立つ小波がきらきらと。俺の双眸に映る海の様に広大なこの湖を一面輝かしている、この風情を共に楽しむ者は誰一人としていないのだ。
 祖父の語った湖は確かに美しかった。けれど、侘しさは一向に消える気配がない。幾ら、穏やかな水辺に立つ事で戦場(いくさば)の感覚が抜けようと、俺を苛む喪失感は変わらなかった。
 だけれど此処の空気を吸い込むだけで、時間が悠久の物であるかの様な錯覚を覚えた。それは肥大化した寂寞感を僅かに紛らわせるのに役立った。何時までも後悔と自責で塗れていた頭の中がすぅっと晴れ渡る、そんな気分を覚えたお陰で、俺に今必要なのは気持ちの整理である事が理解出来た。
 この湖を前にして思った事が一つある。それは水面に映る魚影の在り方ではなく、雲海に靡く風の在り方でもない。何と言うべきだろう。此処は、とても神聖な場所なのではないだろうか。
 人の心命を清め、正し、そしてあるべき場所へ導いてくれそうな   。


 暫く湖畔を歩いてふと湖を見遣ると、どうやら花鳥風月が其処に広がっている様子であったのでつい息を呑んだ。
「ふむ、絵に興すにもさぞや素晴らしい絶景かな」
 絵巻物を縦に広げる様にして、風景をその中に当て嵌める。群れを成し飛来する雁が遠雲に霞む島々に重なる。空の青と水の青が混ざり合う遠景を、是非とも水墨筆の淡い黒の色彩で一覧に供したいもの。
 俺はそんな風に想いを焦がしながら水辺を存分に歩き、風を匂い、さざめきを耳に留める。気付けば随分、散策に夢中になっているものだった。
 ふと風景に木が混ざる様になる。
 湖の周りには木が囲む。その木を山がまた囲んでいた。専(もっぱ)ら人が住むのは森の少し奥ばった所を切り開いた場所だが、此方は人里とは逆の方向である。その所為か足場も悪くあちらこちらに木の根に抱かれた岩が転がっている。
 土地勘のない俺が知らぬ森を歩くのは得策ではないし、もうふらふら歩くには過ぎたる時が経っている気もした。ほどほどの所で引き返そうと思っていた所で、向こうに見える木々の隙間に小さな建物が覗くのに気付いた。
 よし、最期にあれを目に焼き付けてから戻ろう。村に戻って夕餉支度をしようと決めた所で、俺の足取りは岩々や剥き出した木の根を飛び跳ねる様に軽く動いた。


    木の隙間に身体を滑り込ませた先にあった建物は思っていたよりも格段に小さい物だった。
 それは比べてみると俺よりも背の低い、精々猪が収まる程度の大きさである祠であった。
 屈んで背丈を合わせ、よく見てみる。祠と言っても、その漆は雨風に曝され剥げ落ち土に還りつつある。木目の隙間を蟻が食い荒らしては木屑が周囲に散り舞い、戸の建て付けは歪んで今にも倒れ落ちようとしているなど、酷い風体をしていた。
 随分と古くからあった祠の様だ。今となっては手入れする者もいないと言う事が、この祠が訴えずとも見て取れた。そういえば、此処に至る道筋も随分と不親切であった事を振り返る。
 此処にも嘗て神仏の類が奉られていたのだろうか   。壊れかけた戸の向こうには未だ橙色に輝きを失わぬ玉が治められているのが見えた。
「ふむ」
 祠の劣化具合に反して治められた玉は随分と綺麗だ。まるで今日の朝にでも取り替えられたかの様で、見ていると吸い込まれそうな何かを感じる。
 刹那、これを持って帰ろうか、などという考えが湧いてきたが直ぐに消え失せた。万一今此処でこれを盗んだとして、それを金銭や米に変えるまでの苦労を考えるといい事はない。俺は無欲な人間ではないが、それ程罰当たりな事が平気で出来る所まで落ちぶれているつもりもない。これはこのままそっとしておくのがいいだろう。
 さて、収穫はこれくらいか。ついつい夢中になってしまっていたが、中々に新鮮な物を目にした。俺の故郷は都にあったから、こういう田舎の風景は不思議と皆面白く感じる。さぁ、帰って夕餉の支度でもしようか。そう思って立ち上がって見えた祠の後ろには木柵が張られており、それを乗り越えた先には岩が積み上がって湖を望める様になっているのが見えた。
 あそこに行けば、中々の絶景を拝めるかもしれない。しかし、左に松を掲げる大きな岩壁があるにはあるが、それに身体を預けて伝っていくにしても其処まで至るまでには多少足場が不安気だった。今此処に柵があるのは昔あの隘路で滑落した者が居た為だろうか。
 何にせよ、今日辺りからもうこれからの生活に見当をつけなければならない身の上であるからして、此処には二度も来るかどうか妖しい所だ。今日今この瞬間少し足を伸ばしたくらいで散歩でなくな
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