その日の天気は憶えていない。空を見上げるのは何時も億劫だった。
気紛れに立てたポストの中身を形だけ覗くのが習慣になっていた。この街が私を知る訳がないのにこのポストの存在だけ知られている筈も無く、中身の空間にはぽかりと暗闇が浮かぶ。
何時もはそうだった。浮かんだ暗闇に名も知らぬ虫が這いずり回っているのを眺めるのが心の安らぎでもあった。だが今日は、そんな場所に不釣り合いな程白くピカピカと光る平らな物が毅然と佇んでいたのだった。指で触れると黒く霞んでしまうそれを引き出して眺めてみる。
まるで手紙の様だ。いや、これは手紙そのものではないだろうか。
随分と久しく目にしていなかった。嘗ての私に届く物と言えば弟からの手紙か誤配送の犠牲者名義の手紙ばかりだった。
これもその類だろう。裏を向けてみると、其処には久しい名前が書いてあった。
様へ
弟の名だ。
その文字の列を目にするまで、私にとって弟は弟でしかなく、名前など構わないと思っていた。だが文字にして目に飛び込んできたそれは弟の鮮烈なイメージを強引な程に私に押し付けて来たのであった。
米神を殴る風が吹く。遠くで土埃が舞うのが見える。その中心に鶏冠の様な物が揺れているのが見えたが、気の所為だろうか。
兎も角、弟の名で私の下へと届ける配達屋とは一体何処までの物好きであろうか。一度興味を持ったが、私には目下、今は亡き弟宛てのこの手紙に目を通す事を先決としていた。もし弟が亡くなった事を知らないのであれば、それでいて弟の事をどう思っているか次第では弟の死という先んじて起こった事実について述懐しなければ先方は今も亡き弟へ想いを馳せ続ける事になる。無論それは人に依っては構わないのかもしれないが、私にとっては些か夢見心地も悪いものだ。
再度表を向けてみる。
サウスヴェルグ児童養護院院長、ヴィルトーニャ=エスキンプ。
教会の印が押されただけで格調高い事が窺える手紙だったが、児童養護院とはまた意外な、或いは何処であろうと意外であっただろうが、その中でも取り分けて予想しえなかっただろう場所からであった。
弟は児童養護院院長とどういった関わりがあるのだろう。或いはその施設に関わりがあるのか。如何に依っては私が書き返すべき手記の書き出しを早々に思慮しなければなるまい。
通行人に靴を履かせに出掛けようかと思ったが今日は止める事にした。元々迷惑を掛ける事であったから止める事に些かも躊躇する事はなかったし、どうやらこれは返答に値する手紙である事は判っていたから、慣れぬ文筆を整え文句を考えるのに一日必要となるであろう事を計算に入れての事であった。
レターナイフなど持っていなかったので封蝋を指で剥がし、中で畳まれていた手紙を抜き出す。青味がかった便箋に踊る様な文字で取り留めも無い挨拶文が先ず書かれ、以下には違って一文一文に苦悩を混じらせた文章が続いていた。
その内容に目を通している内に、私は返事の内容如何を考える思考は消え失せて驚愕と歎きのままに視線を走らせるに至った。最期の一文まで読み終え何度か同じく目を通したが、文字の形が幾分歪んだ様に感じられただけで書かれた内容は変わらない。
私は宝の様に扱いながら便箋を畳み仕舞った。一度心を落ち着かせ、盥に張った水に顔を漬けた。ひんやりと揺れる水が顔の産毛によく張り付いた。
時は冬に差し掛かった頃だった。
弟には 娘が居たのだ。
――――――――――
短い冬の訪れが、開いた窓から流れ込む。
手紙を受領した日は返事を書いた。弟がすでに他界した事、そして書かれた要求を私が満たす事は出来ないという旨を示す為だ。最期にこの小屋の住所を書く。メインストリートからは大きく逸れた道で美味いパンを焼く店があり、焼き立てのトーストの香りに鼻を擽られながら橋を渡った先の、思わず齧りついてしまいそうな形をした切り株を踏み越えた先だと書いた。
返事の返事は翌日に届いた。書き出しに弟が亡くなったという事実に丁寧な文字で哀悼の意を表した後、それでも要求を満たせないかどうか打診する内容であった。
私は先方の身の上が身を切る程理解出来たが、それでも私は弟ではなかったし、なり切れなかった。弟は死んだのだ。
そして最後に、一度児童養護院に来てみないかとの誘いで文言は締め括られていた。
このまま断り続けても埒が明かない事を私は悟っていた。だが、先方だって今の私を見れば諦めが着くだろう。私は自嘲的な思考に帰結した。
取り敢えずは返事を書こう。私は児童養護院宛てに新しく購入したこの時期にぴったりの雪化粧をあしらえた便箋を抜き出し、萎びた羽ペンを走らせた。
今度お伺い致します、と。
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