【挿話-信仰のゆりかご】


 まるで夢を見ている様だった。
 いつも見上げているばかりだった。サレナリエ大聖堂の荘厳なるバルコニーに今自分が立っているだなんて、信じられない。
 本当なら、此処はボクみたいな子供が居ていい場所じゃない。教会で取り分け何十年と篤く信仰を手向ける大人の人が、普段なら立っている様な場所だった。何て言ったって此処は、南洋国家の主たる宗勢である南洋正教会の信者の方達に向かって、教会の司教や司祭達が容貌を顕わす特別な場所なんだ。
 つい先日まで、ボクは見上げる側だった。眼下には、祈りを捧げてくれる信者達が見える。白染めの麻を着込み、誰もがボクに跪いていた。
    南洋正教会の新しい教皇としての、ボクに対して。
 恥ずかしい気持ちが一杯だった。敬われるというのも、くすぐったくて変な気分にしかならなかった。けれど、ボクはこれから、救いを求める多くの人達に応えなければいけない。此処で弱虫のままではいられないって、ヴァーチャー様もきっと仰る事だろう。
 だから努めて、ボクは前を向いた。そうだ。例えこの身が穢れていようとも、此処までの道を切り開いてくれたあの人の為なら、ボクは何にだってなれる。何だってしてあげられる。
    ヴァーチャー様、ボクは此処まで辿り着きました。
 貴方のお陰です。
 貴方の助けがなければ、ボクは一介の孤児から教皇となるまでにはいかなかった。ボクが自分の願いを成就する事は出来なかったでしょう。
 だから、今度は。
 今度こそは、ボクがヴァーチャー様を助ける番です。

    だから、ずっとボクの傍に居て下さい、ヴァーチャー様……
#9829;


―――――


 ボクは、南洋の田舎に暮らす平民の子だった。
 家族には母さんと父さんが居た。
 お金は無く、食事は日を隔たって一度しか機会を与えられない暮らしだった。というのも、日々の稼ぎは母さんが機を織る事で得られる分しかなく、その只でさえ少ない生活費を父さんが奪い去って行ったからだった。
 けれど、ボク達の生活は間違いなく豊かだった。
 ボク達には、信仰があったから。
 今の生活に耐え抜けば、ボクと母さんは救われる。父さんだって、今にきちんと働き始め、お酒も賭け事も止めてくれる   。
 ボクと母さんがこうして、サレナリエ大聖堂のある方角に向かって拵えられた簡易祭壇に跪いて祈りを捧げるのは、何も父さんが更正する様に願う為じゃなかった。今日までの糧を与えて下さった神様に、ボク達の信仰が何れ実を結んだ時の感謝を捧げているのだ。
 ありがとうございます、神様。
    貴方様のお陰で、ボク達は明日を強く生きて居られます。


 背後で、建て付けの悪かった家の扉が開いた音がした。木板を並べただけの床をブーツで踏み慣らしながら入って来たのは、獣の皮で編んだチョッキを着込んだ父さんだった。その顔は仄かに赤くなっていて、手ぶら下がる瓶からはお酒の臭いが漂って来ていた。
「あ……おかえりなさい、あなた」
 母さんが慌てて立ち上がると、その足元がふらついて、床に倒れ込んだ。
 ボクは驚いて母さんに駆け寄ったが、父さんはそんな母さんの姿を一瞥しただけで、手近な椅子を引き寄せて座った。酒瓶に口を寄せて、中の液体を撥ねさせる。
「おいぃ、金は何処に仕舞ってあるんだぁ?」
 ああ、父さんの舌が回っていない。こういう時の父さんは、どんな些細な口答えに対しても村中に響き渡る怒鳴り声を返す。
 ボクに支えられ立ち上がった母さんは、窶れた顔に一層疲労を溜め込んで、首を振った。
「ありません……あなたが先日持って行った分以外に、お金なんて」
 父さんは表情を赤く、または土色に変えて、椅子を倒す勢いで立ち上がると、母さんに詰め寄ってその頬を殴り付けた。軋む床に叩き付けられた母さんの身体は、今にも折れてしまいそう。
「父さん、暴力は止めて下さい! 母さんは、この所具合が悪くて……!」
「うるせぇ! 今日また夕方頃にまた貰った筈だ。ズル賢くなりやがったか、受け取る分を二回に分けやがって、このアマ。何処に仕舞ってあるんだ、ええ? さっさと、言えってんだ!」
 母さんの顎を引っ掴み、恫喝した後有無を言わさず張り手。元々小さな身体だった母さんの身体は、それだけで軽々と飛ばされた。
「母さん!」
 母さんが傷付けられるのは見たくない。ボクは、震える身体を引き摺って、父さんの前に立ち塞がった。
「……何のつもりだ」
「うぅ……っ!」
 怒髪天を衝く父さんを前に、ボクは只涙を漏らしながら低く唸る事しか出来なかった。
 父さんはそんなボクの襟首を掴み挙げた。母さんより軽いボクの身体は父さんの手で宙に浮かんだ。まるで粗悪な麻のロープで首を締められる様な息苦しさに、ボクは足をバタつかせた。
「お前まで俺を馬鹿にする気か!? 
[3]次へ
ページ移動[1 2 3 4 5 6 7]
[7]TOP [9]目次
[0]投票 [*]感想[#]メール登録
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33