【変貌】
言ってみれば、それは最悪の状況だった。
ゲーテとソニアは敵の手の中にあり、嘗ては俺を守護していた心強い結界は、今では教団の味方をしている。あれは強力だが、万全の状態の俺でならなんとか打ち崩せた代物だ。だが、今の俺に聖人ケルニールを打ち破る力は残っていない。
すぐに気付いた。手詰まりだと。
俺は言い成りになるしかなかった。司祭に渡された黒い種を口に放り込む。ざらざらとした感触が粘膜を削る。噛み砕こうと歯を立てても、クルミより硬い其れは犬歯を埋め込む隙さえ見せない。結局、割りと大きめなそれを丸のみするしかなかった。
ゴクッ
喉壁を押し広げ、それはゆっくりと俺の身体の中に入り込んでくる。やがて、すとん、と身体の底に落ちた。種が胃酸に曝されている場面を想像する。冷や汗が頬を伝う。心臓締め付けられる。だが、何時まで経っても痛みも違和感もない。それどころか、胃の中でごろごろとしていた種の存在がすっと消えた。
俺は思わずほっとしてしまった。そのまま消化されたようだ。なんだ、何も起こらないじゃないか。身構えて損した。そう思った。
……すぐに、後悔する事になる。
ズチュッ
「 !!? おぐぇッ」
生々しい音と共に激しく込み上げてくる吐き気。そのまま口から吐き出されたのは、ドス黒い血。激しくきりきりと腹が痛み始める。
「どうやら同化が始まったようじゃな」
爺が言う。同化。どういう意味だ。そう問いたかったが、この世のものとは思えぬ激痛に俺はみっともなく悶え、膝を付くだけだった。
なんだ、この痛み。まるで、胃壁を突き破って何かが身体に根を張っていくようだ。痛みが腹から広がっていく。抗おうと腹を掻き毟っても治まる様子のない、全身を這う蟻走感と吐き気。今度吐き出されたのは先ほどよりも数段ドス黒い血。自分のものとは到底思えなかった。
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い ッ!
身体がひとりでに仰け反る。俺の意思を無視して、全身の筋肉が好き勝手に動き出す。まるで何かが身体に乗り移って、動きを確かめているかの様に。その時から、もう俺の身体は得体の知れないモノに支配されていた。
やがて、痛みは首を這い上り、額を貫いた。
そして俺の意識は触手に雁字搦めにされ、深い闇へと引きずり込まれ、沈んでいくのだった 。
―――――
不思議な感覚だった。
目は開けていないのに、光の中に自分がぷかりと浮かんでいる気がする。
酷く眠たい。だけど、これほどまでに気持ちが安らいだ事など、今まであっただろうか。
不思議で、得体の知れない感覚だけど、少しの間だけ此処に居てもいいな、と思った。
母親。もしかしたら、これがそうなのかもしれない。母親の腕の中に抱かれている、というのは。
そんな事をぼんやり思う。
涙が、出てきてしまった。
そんな時に、声を聞く。
『 なんで、泣いてるの?』
腫れ物に触るような、そんな少女の声。俺は何故なのか考えてみる。
「……納得、出来ないんや」
そう一言。続けて、言葉が思いつく。
「俺は……なんで、皆に憎まれるんや……? 俺、何か悪い事した……?」
教団が俺を虐待した事。
同僚が俺を排他しようとした事。
ドリスが俺に答えてくれない事。
ゲーテが俺を信用しない事。
母親が、俺を捨てたという事。
「なんで……俺だけ?」
他の子供達は攫われて教団に居る。だけど、俺は違った。
……売られて来たのだ。実の母親から。実の家族から。
その事実を知ったのは、最初に教団の施設に忍び込んだ時。其処には、俺が教団に売られてきた経緯が事細かく記された資料があった。
俺はそれが信じられなくて、大陸各地の資料と照らし合わせる為に彼方此方の施設に忍び込んだ。だけど、どれもこれも最初の資料を裏付ける内容しか書かれていなかった。
そして俺は最後の望みを掛けて、教団本部に忍び込むに至ったのだ。
しかし、各地の施設を回っていた所為で俺の動向は完全に奴等に伝わり、こうして本部に罠を仕掛けられる羽目となってしまった。
俺は納得いかなかった。
信じていたのに。
未だ見ぬ家族だけは、俺の事を何処かで想ってくれているって。
納得、出来た訳なかった。
やがて、声は俺に同情するように囁きかえす。
『かわいそう。誰も、貴方を愛してくれないの』
突き詰めればそうだ。また、泣きたくなった。
するとその時、頬に柔らかい何かが触れた。
『じゃあ、私が愛してあげる。……誰よりも、深く』
「え?」
突飛な台詞を聞いた後、唇に何かが触れた気がした。
『だから……一緒に居ていい?』
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