「そんなの、嫌よ!」
俺の花嫁、ナーシェは端麗な顔を歪ませた。
俺よりも一回り小さく華奢な身体には、今夜を飾る筈だった高価な服が纏われている。彼女はそれを振り乱して、不条理を訴えた。
「判ってるよ。俺も、嫌だ」
「判ってる、じゃないわよっ。どうしてなの。伯父さんがお金を支払ってくれていたんじゃなかったの? 話が違うじゃないっ」
俺達はまだ若かった。俺は十八で、ナーシェは二つ上。幼馴染でありながら、彼女は正に俺の姉のような存在であった。
そんな彼女とこうして結ばれ、幸せの絶頂である筈だというのに。
「その筈だったんだ。ちゃんと、約束してたんだっ」
早口に捲くし立てるナーシェに、俺も全くそのつもりでいた事を落ち着いたトーンで伝える。彼女は式中に見せた笑顔とは全く異なる感情を爆発させる。
彼女の目をふと見ると、其処には怒りと言うよりも悲しみが渦を巻いていた。
「もう、私達、結婚しちゃったんだよ……? 早くお金、払わなきゃ、私」
「……」
悲痛な声。俺は彼女を守ると誓った筈だった。なのに、結婚して最初の夜を迎える前に、その誓いが果たせなくなるなんて。
「……もう一度、伯父さんと話を付けてくる」
この風習に曝される農民は皆、この風習を忌んでいる。
まだ貧しいカップル達の代わりに金を支払ってくれる人は、ささやかながら領主の歪んだ欲望に抵抗しようという人達だ。伯父もその一人の筈だった。まだ十八其処等で貯蓄の乏しい俺の代わりに金を支払ってくれる筈だったのだ。
なのに、だ。結婚式が終わって、二人のこれからについて夢を馳せようと言う時に、突然「金は払えない」と言って来た。
一瞬、言葉の意味が判らなかった。理解してからは冗談だと思った。もう事前に支払いは済ませていた筈だった。此方はそのつもりだった。なのに「払っていない」と付け足された。申し訳なさそうな顔で。
必ず、金は返すと約束したのだ。二人で一生懸命働いて、金はちゃんと返すと。伯父は笑って「返さなくても良い。二人の祝い金だよ」と言った。ほんの一週間前だ。納金日のギリギリまで伯父は俺達の申し出を断り続けたのに、まさか、今更金が惜しくなった?
だったら、今から伯父の目も前で、必ず返すと誓ってみせよう。そうすれば、きっと判ってくれる。
それでも駄目だったら 一発、ぶん殴る。
ナーシェは俺の目付きから何かを察し、新居予定の家から出ていこうとする俺を慌てて引き留める。
「だめよっ。何するつもり?」
「どうして急に金が惜しくなったのか、問いただしにだよっ」
「……だめ。間に合わないよ」
間に合わない。
顔を伏せ、噎び泣く彼女が絶望から絞り出した言葉の意味。俺ははっとなった。今はもう、夜。
直に迎えが来る。
ナーシェが俺に寄り掛かってくる。俺は彼女を腕に抱き締めた。
彼女は悲嘆の涙を、俺が纏う麻に染み込ませる。
「傍に居て……。迎えが来た時に、貴方が居なかったら……」
「……判った」
俺は彼女を更に抱き寄せる。涙の筋が未だ頬を伝う彼女の髪を撫で、接吻を交わす。今まで長く付き合って来たが、初めてキスをしたのは結婚式の時、つまりさっきだった。俺達にとって、このキスは結婚式の続きと言えただろう。
熱い舌が行きかう。名残惜しく、互いの間を行きかう。肌を触れ合わせ、彼女が無垢で居られる僅かな時間を俺が独占する。
互いの気持ちが高ぶる寸前の所で、激しく玄関の扉がけたたましく叩かれる。俺は彼女と離れる間際、言った。
「今日一日で、俺達の仲が終わる訳じゃないんだ。続きは、帰ってからしような」
「うん……」
不安でたまらなそうに、ナーシェは震えた。
俺は彼女の髪を撫でてから、玄関の扉を開ける。外には予想通り、領主の私兵が数人待ち受けていた。
「本日式を挙げた新郎新婦とはお前達の事だな?」
俺と、後ろで震えているナーシェに視線が向けられた。
俺は天を仰ぐ。夜空に満点の星が煌めいている。心臓の鼓動が速くなる。
いっそのこと、嘘を吐いてしまおうか。もしかしたら、どうにかなるのじゃないか。そんな浅はかな可能性を頭に浮かべる。いや、浅はかかどうかはやってみなきゃ分からない。本当に騙されてくれるかもしれない。バレる前に逃げ出せば、彼女は無垢なままで居られる 。
「……そうだ」
俺はゆっくり頷いた。
汗が噴き出す。此処で嘘を吐いて僅かな時間を得た所で、更に立場を悪くするだけだ。楽になりたい、迫る状況から逃げたい。そう思った俺は逃げ道を探してしまった。
俺が逃げては駄目なんだ。彼女を守るには、今は、俺が毅然としていなければならない。
「ナーシェ」
彼女を呼ぶ。俺の覚悟を察してか、自分から家の外に歩み出し、兵士の手を掴む。
「領主様がお待ちだ。精々、今晩だけで
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