前篇

「具合はどうだ、時義(ときよし)」
 灯り乏しい少年の病床に、父親が歩み寄る。
「はい、父上。今日は調子がいいです」
 やつれた表情で少年は父親に心配させまいと微笑む。
 そんな息子の姿に、父は鼻で溜息を吐く。
「無理をするな。運ばせた食事も少ししか食べとらんとはいうではないか」
「なんだか、お腹一杯で」
 父親は首を振った。
「いかんぞ。きちんと飯を食って力を付けねば、病魔にも勝てん」
 少年は、力無く笑った。
「はい、父上」
 そう言って、少年は父親の匙を口に含む。
「どうだ、食えば力が付くだろう」
「はい、父上」
「……では、私はもう行くからな。良く寝るのだぞ」
「はい」
 父親はそう告げて、部屋から立ち去る。

    ゴホゴホッ。

 激しく咳(しわぶ)く。
 口を抑えた手に、紅が付く。
「……」
 少年は何も言わず、傍に置いてあった紙で手を拭う。
 そして、また小さく咳(しわぶ)きながら布団に潜り込むのであった。



――――――――――



 黒揚羽が舞う。
 外は雨。
 思わぬ来訪者は少年の指先に羽を休めた。
「   雨宿りに来たの?」
 黒い翅はひらひらと呑気に揺れていた。
「いいね、君は……自由で」
 少年は言う。
「僕も君達と同じ短い命だけれど、ずっと寝てばかり。只死ぬのを待つだけ。僕も、久し振りに外に出てみたい   」
 少年はその瞬間、激しく咳(しわぶ)いた。
 けれど、黒い翅は気紛れに、少年の指から飛び立とうとはしない。不思議に思いながら、少年は苦しそうに笑う。
「……死んだら、君達が見る世界が見られるのかな……?」



――――――――――



 時義は夢を見た。
 不思議な夢だった。
 宙を舞う夢だった。
 空を飛ぶ夢ではない。
 森の木々の間を飛び縫う夢だった。
 なんだろう、これは。
 夢の中だと言うのに、とても現に近い気分だ。
 まるで、自分が蝶になったかのような気分。
 なんだか楽しくなってきた。
 一生このままでいいかもしれない、そんな解放感に包まれていた。
 そんな時、見覚えのある景色が目に飛び込んだ。
 そう言えば此処は、最近よく思い出すようになっていた、何時かの   。

    チリン。

 澄んだ、鈴の音。

 確かに聞こえた。
 あの日から耳に着いて離れない、あの鈴の音。
 時義は音の鳴る方へ行きたいと願った。
 すると体は独りでに、時義の望む方へと進んだ。
 木と木の間、葉と葉の間を通り抜ける。
 その先に佇んでいたのは……



――――――――――



「   ?」
 少年の夢は其処で途切れてしまう。
 何時の間にか眠ってしまっていたらしい。
 外で雨がしとしと。
「……何が」
 少年はおぼろげな記憶を反芻する。
 夢の中で、誰かが自分の名を呼んだ。
    黄金の毛。澄んだ、鈴の音。
 柔らかい声で、誰かが呼んだ。
 ……なんと、言っただろう。
 何かを言われたと、そう思う。
 確か……

『もうすぐ、逢いに行くぞ   』

 自分を迎える声だった気がする。
 だとすれば、あれは黄泉の神なのかもしれない。
 きっと自分を迎えに行くと言っているのだ。
 きっと、そんな自分の為にさっきのような夢を見せてくれたのだ。
    黒揚羽の目を、貸してくれたのだ。
「ありがとう、神様」
 少年は、自分の魂を浚いに来る神に感謝の意を捧げた。
「最期に僕の願いを叶えてくれて。最期に、僕を安らかに眠らせてくれて」
 まだ命すら尽きない身で、そう言った。


「時義、入るぞ」
 そんな所へ、父親の声が響く。
 少年はゆっくりと布団に潜る。
 部屋の襖を開けた父親は、そんな少年の姿を見て溜息を吐いた。
「寝ていなさいと言ったではないか」
「すみません……」
「いや、今は良い。丁度、祓い師の方に来て頂いた所だ」
 祓い師   少年は首を傾げた。
「父上、僕には悪霊が取り付いているのですか?」
 父は不安がる息子に苦笑いする。
「いいや、何にしてもお前の回復を祈ってもらう為だ。辛いかも知れんが、粗相のないように」
 そう言い付けられた少年は、父親の言う通り、布団の上に正座を組む。
 祓い師、もとい陰陽師というのは悪霊や呪い、又祭事といった物に詳しいことから、こうやって病魔を祈祷で退けようとする事も多い。少年は病床に就く身でありながら本でそのような知識を得ていた。
 摩訶不思議な力で病魔を退散させる……少年は文字に目を通しながら、どんな人物がそのような事をしでかせるのかと、淡い憧れを抱いていた。
 父親が静かにその場を退き、頭を下げる。
 少年がやつれた体に鞭打ちながら、しかと眼をひた向ける。

    チリン。

 やや、と思った。
 少年は耳触りのよい鈴の音を拾った。
 つくづく
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