芳しい磯の香りが気怠げにしな垂れかかって来る海の上で、まるで重さを捨て去ったかの様に海面を滑る船の乗り心地は悪くなかった。海面蒸気に混じる塩の残滓が顔を荒っぽく撫で削る。
もうすぐ到着だと知らせんばかりに海鳥が併走する。客船だと知るや乗客からお零れをもらおうと甲高い声を金繰り立て、平和な旅路の賜物であった眠気を雨上がりの雲の様に晴らしてくれる。
その白く穢れない翼が映す太陽は眩しかった。
海に突き出す様にこさえられた木造の船着場に足を落とした時、俺はふと自分が大きな水溜りの上を滑ってきた様な感傷を憶えた。
空を見上げる。朝靄の中出港した船は、確かに予定通り太陽直下に寄港した。僅か三時間の航海であったが、初めて船に乗った子供の様な、そんな興奮を身に宿している事を周りの一般客に知られるのは少し恥ずかしいものだった。
港町ベルポート行きのゲルカンサン号。白い船体を重たく動かす割に海の上では繊細に滑る事の出来るこの船の船長は船焼けで真っ黒。そんな漆黒の肌からニカリと安請け合いに見せる歯は日差しを一身に受け、俺の目に馴れ馴れしく飛び込んできたものだった。
降客第一号の俺を出迎えた白ペンキを被る看板は「港町ベルポートへようこそ!」と赤くなりつつも、威風堂々と迎えてくれた。踏まれてギィギィ文句を言う足場をこれ見よがしに踏み付けながら、俺は一歩、また一歩とこの足並みを確かめるつもりで踏み出す。
「 さてさて」
真っ先に船から降りて船着場を後にする他の客を見送った後、俺は切り出した。
「お昼は何処で食べようか」
笑い掛けた。先程まで船と併走していた白鴎をそのまま連れて来てしまったのかと思わせる、そのカジュアルドレスを来た彼女。その身の楚々とした雰囲気と見事に合うブリマー*鍔の広い帽子で表情に影を差すその立ち居振る舞いは常時俺を魅了していた。
彼女は、愛しき我が恋人は、そんな俺の姿をブリマーからそっと眺め、そっと笑った。
「貴方様が望むなら、何処ででも」
任意。つまり何処ででもいいんだけど、結局マシな所がいいという事だ。
女性相手に気を払う事には疎い事に自覚がある。窮地に立たされた事を悟ってニヤつく俺の表情を窺うと、ふと何かを思い出した様に、彼女は口元に指を添えた。
「そうですね。やっぱりその土地に合ったものを頂きたいです」
言い直す。俺の伝わり難いであろう困惑を読み取って気遣ってくれたという事実がありありと伝わる。判ってはいたが、そんな自分が少し情けない。
「港町といえば、新鮮な海鮮料理が定番やとは思わんか」
「はい」
「白身魚のソテーとかどうかな。そういえば、ジパングでは生魚を綺麗に捌いて食う事もあるらしいな」
「お刺身ですね」
「おお、良く知っているな」
「お料理本とかよく読みますから」
「成程な。此処等辺にジパング料理店なんてあったら一度生魚の風味を味わってみたいものや」
今思っても、他愛のない会話だった。
だけれどこれは彼女と俺双方にとって、とても強く想い願った幸せだった。
俺達二人、とても長い時間の中でやっと掴んだ人並みの幸せだった。
こんな時間でも大切にしたい。大切に出来るこの今が、俺にとってのきっと全て。
「 ヴァーチャー様、待って下さい」
後ろから慌てた声に引き止められる。
気付くと俺の隣にフレデリカは居なくて、足を止めると後ろからフレデリカが駆け足で追い着いてくる。少しだけ責める様な視線を俺に向けると、彼女はぷりぷりと文句を言い始めた。
「もうっ。ヴァーチャー様、歩くの早いです」
「ああ、悪い悪い」
歩調を合わせるのを忘れていた。合わせようさえと思っていなかった。著しく配慮に欠けていたものだった。
俺は誤魔化しがちに笑って見せた。
「こんな風に過せる時が来るなんて思ってなかったから……どうも、慣れてないみたいや」
自分でも照れが出ている事に気持ちの悪さを感じているが、正直此処に来てフレデリカの顔を直視出来ていない事も事実として受け止めなければならないだろう。
フレデリカは少し悩んだ振りをしてみせる。
「そうですか。いいんです、気にしないでください。……その代わり」
だきっ、と腕が不意に重くなる。
「こうしていれば、例えヴァーチャー様が置いて行こうとしても離れ離れになりませんっ」
飼い主から魚をかっさらおうとする猫の様な悪戯な笑み。フレデリカは俺の右腕を体の中心に抱き込み、柔らかで重たい籠手になった。
俺は自嘲した。俺が彼女を置いていこうとするなんてとんでもない。彼女を置いていこうとすれば、この腕は千切れ去るに違いないのだ。
「な、なんか恥ずかしいな」
寄り添い歩いているなんて、まるで恋人同士の様だ。いや事実恋人以外の何者でもないのであって、本来的に何の問題
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