前篇

 その夜は嫌な予感がした。月も出ぬ夜。暗黒に包まれた外気は酷く冷え込んでいた。なのに、首に汗が伝う。背筋もぞっとする気配。
 枕元に置いてあった刀を脇に差し、寝屋から立つ。何かに突き動かされるように廊下を歩いていき、やがて辿り着いたのは重厚な観音扉の前。それを手に掛け、ゆっくりと開く。生暖かい空気が顔に吐き出されるのに、思わず息を呑む。中は薄暗い。奥に滾々と赤い光が鈍い輝きを放っているのが見えた。
 中に入ってよくよく其れを眺めた俺は、何かこの部屋に漂う違和感に気付く。空気に糸が張られている気がした。だが、俺はそれでも心の何処かで異常がない事を願っていた。
 それが油断とも知らず。

 ズシャァッ

 顔の右半分の皮が強引に引き剥がされたように感じた瞬間、じわりじわりと耐え難い痛みが噴出してくる。
「ああぁぁぁ   っ」

 思わず刀を握ったまま顔を抑え、拍子に傍の机に腰を打って尻餅をつく。右の視界が真っ赤だ。真っ赤で……それが丸い輪を象ると、其れを残して周りが真っ暗になる。左目に映ったのは其れと別の光景。血塗れの俺の両手。
「   チッ、話が違うではないか」
 痛みと右目の異変に気が動転している俺は、そんな言葉を聞く。暗がりの中、俺を突然斬り付けた曲者の発した言葉だ。
「見張りは居ない。そう聞いていたのに、全く。やはり魔物など当てにならんな。西も東も、魔物は呼び方を変えるだけで中身はちっとも変わらん。君もそうは思わないか?」
 俺に話しかけている。左目だけで奴を見上げる。視界がぼやけながらも、俺は相手の特徴をしっかりと見定めた。いや、どうしても目に付いた。暗がりの中でも輝く金色の、腰まで伸ばした髪。そして、今までこの国で見たことも無かった白い服。ひらついた衣装。その手に持っているのは鉤爪か何かだろうか。
 此処、東洋では金の髪で、しかも髪を腰まで伸ばす者などいない。この曲者は西洋人に違いない。だが、この時察しの悪い俺には判らなかった。何故その西洋人が此処に居るのか。今こうして俺に不意打ちを掛けたのか。
「まぁ、死に行く相手に何を話そうと酔狂に過ぎまいがね。だが慈悲を掛けてやろう。何故自分が今こうして地に這いつくばっているのかぐらいは   判って死にたいだろう?」
 そう話す西洋人に、俺は少しだけ冷静になった。そう、少し冷静になって、考えればこの男の目的は判ったのだ。俺は其れに勘付き、刀を握り締める。
 今此奴のやろうとして居る事、俺の予想が正しければ、其れは今俺が痛みに悶えている場合じゃない事だ。切っ先を奴の背に向け、俺は斬りかかる。
「……でやぁぁぁっ」
 だがそんな俺に、西洋人は振り向きもせずに何かを呟いた。
「<ファラニアスがそうであったように、愚か者どもは大地に杭打ちにされるであろう>」
 その瞬間、俺の足が動かなくなる。勢い余って俺は体勢を崩す。その時足が地面から離れないことに気付く。結局、無理な体勢で倒れた俺はそのまま足をへし折ることになる。ばきばきと、木が倒れるような音が全身を駆けた。
「ぐあぁっ!?」
「間抜けが」
 そう言い放つ西洋人。その先には、俺たち祁答院(けどういん)家が代々守ってきた宝がある。祠に収められたその宝は、先祖から受け継いできた大切な物。俺が守らなければならない代物。
「お前……お前ぇぇっ」
 見れば足に杭を打ちつけられていた。地面から足が離れない。どちらにしても、そんな時に転倒したものだから、足の骨は折れて動かない。
 俺は叫ぶしかなかった。例え奴が祠の札を剥がして、中から赤色に渦巻く模様の宝玉を手にとって、一笑したのを見ても。俺の体は動かなかった。
「……これが、例の物か。良い輝きだ。正しく僕にうってつけの宝じゃないか。態々遠くまで足を運んだ甲斐があった。」
「お前   西洋人! 一体、なんのつもりだ」
 西洋人は俺の前に歩み寄り、鉤爪のような長い刀身を三つ並べた剣を俺に向ける。
「口五月蠅い奴だ。こんな所に居らず、自分の部屋で寝ていればよかったものを」
 鉤爪の刃が俺の首に宛がわれる。刀で弾こうと指を動かすが、今更刀を落としてしまったことに気付く。武士は刀が折れたとき、手放したときに、負けが決定する。俺は急に朦朧とし始める意識の中、死を覚悟した。

「   雲掃っ」
 何処かで聞いたような、可愛らしい女子の悲痛な声が聞こえた気がした。
 その瞬間、俺の首の刃が離れた。耳元で激しい剣戟音が聞こえる。俺の感じ取れた部分はこの部屋の闇の暗さだけ。だが、俺の傍では、俺の良く知る奴が、何か喋っていたように思える。西洋人から俺を守ってくれていたように思える。
 ……俺は、深い闇に溶けていくような感覚を憶えたまま、左目を閉じた。右目にあった赤い輪は消えて、その代わりに白い霧のような世界が広がってい
[3]次へ
ページ移動[1 2 3 4 5 6..9]
[7]TOP [9]目次
[0]投票 [*]感想[#]メール登録
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33