魔物が一人、音もなく屋根裏へ駆け上った。
彼女はクノイチと呼ばれる魔物だった。彼女は今『暗殺』任務に就いている。魔物流の暗殺は、男を魅了し、自らの虜とするもの。クノイチたちが目指し、ある種の憧れさえ抱く『暗殺』。彼女もまた例外ではなく、この任務のために修行し己の技量を高めてきた。
そんな一大任務にむかうというのに、クノイチの顔にはなんの感情も浮かんでいなかった。彼女は暗殺任務を命じられた時から、それまでのことは全て忘れて任務に集中した。だが、いよいよ『暗殺』を行うその前に、最後に一度だけ。完全に記憶を消し去ってしまう前に記憶を呼び起こした。
幸福だった日々の記憶を。
◆
「……以上が報告でございます」
「うむ」
クノイチは感情の乏しい顔のまま膝をつき、一人の男の前で首を垂れていた。白髪交じりのこの男は親魔物領を治める大名であった。排他的であった前当主を魔物を使い骨抜きにし、早々に隠居させて代わりに自分が当主となる事で大名となった男であった。彼の前に連なるように座している家臣たちもみな、親魔物派の者ばかりである。
「これでまた、自由に魔物の出入りができる地が増えたのですね」
男に脇に座っていた品のある女性が口を開いた。男の正室である彼女は人間であった。男は側室はとらず子供は彼女との間に生まれた人間の男三人のみであった。彼ら息子たちも他の家臣と共に父親である当主の前に座している。
「おぬしの働きあってのこと、大儀であった」
「……はっ」
「……」
「…………」
「……んふっ」
不意に家臣の一人が小さく吹き出し、肩を震わせた。その様子を目にとめると、当主の男は立ち上がって怒鳴りつけた。
「笑うんじゃないよ!台無しだろう!!」
「だって殿!なんですかこの真面目腐った感じ!」
「クノが報告に戻るから、たまには真面目にやってみようって話だったろ!」
「だってクノさん珍しく動揺してるから!」
「こんなことのためにワシら呼ばんでくださいよ殿!」
「殿と違って我々は忙しいんです!」
「なんだよ!お前ら乗り気だったろうがよー!!」
家臣と当主の言い争いに、クノイチを除くその場にいた全員が笑いだした。当主が自らくだらないことを仕掛け、家臣たちが大笑いする。ここはそういう場所だった。大笑いする家臣や主君の家族に囲まれ、クノイチもほんのわずかだが笑みを浮かべた。
◆
「いやー、面白かった」
「突然のことで驚きました」
当主の部屋に招かれたクノイチは僅かに口角を上げた。大勢いた家臣たちはそれぞれの仕事に戻り、今は当主夫妻とその子供たちだけが部屋に居た。「こういうことは控えてください父上」と真面目な顔立ちそのままの台詞を口にしたのが、嫡男である長男の『イッシン』。「まあまあいいじゃん楽しかったし」と横になったままへらりと笑ったのが次男の『キョウジ』。そしてクノイチにぴったりとくっついて離れないのが三男の『ユキミツ』という名だった。
当主夫妻、そして息子の三人ともがクノイチにとって良き家族であった。まだ反魔物意識が根強い時からクノイチを家来ではなく家族として扱い、ともに寝食を共にし、ともに笑いあってきた。
特に三男のユキミツは前当主隠居後の新体制樹立という忙しい時に生まれた子であった。そのため当主夫妻の代わりにクノイチが世話をすることも多く、子供たちの中でとりわけクノイチに懐いていた。クノイチもまた、ユキミツのことを一番に慕っていた。傍にある小さな体を抱き寄せ、クノイチがそっと頭を撫でれば、ユキミツは照れたような嬉しいような顔でクノイチを見上げるのだった。
「おーおー、ユキミツはほんとにクノが好きだなー」
「うん!クノさん大好き!」
「ユキミツ様……」
「父上!話をそらさないでください!」
「えー、いいじゃんかよー!」
「オヤジほんとにガキみてえだよな……」
たわいない話で家族と笑顔になれる。
これ以上ない、幸せな日々。
「いいだろー……当主としての最後のわがままなんだからさ」
そんな日々が、急に終わるなどと、クノイチは考えてもいなかった。普段感情表現の乏しいクノイチも、この時ばかりは驚きで目を見開いた。
「え……さい、ごとは……?」
「やだあなた!言い方考えてください、クノちゃん驚いてるでしょう」
「悪い悪い、別に死ぬとかじゃない。家督を譲ろうと思ってな」
「ああ、そういう事ですか……」
クノイチはほっと胸をなでおろした。
「ああー……俺もさ、国を出ていくんだ」
安堵したのもつかの間、次男の口から出た言葉にまたクノイチは言葉を失った。
「キョウジ様……なぜ?」
「ちょっと待ってくれ!そんなシリアスになんないでくれよ!」
「で、ですが」
「元々こ
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