「海野(うみの)君、今年でもう30なんだよね? その答えはないだろうよ」
会議室の空気が張り詰める。
僕は胸の内で痛むキズを無視して、考えを巡らした。
「……すみません」
机の上を見ながらそう答え、目線を戻す。下手に考えるよりも謝った方が早い。
「いろいろと経験をさせていないこちらにも非はあるから、あまり言えないがね。
もっと仕事に興味をもって、勉強してもらわないと困る。まぁ君に限らず、皆にはもっと勉強してほしいんだが。
……まあいい。特急の仕事が入ってね。こいつを来週半ばには目星をつけてもらいたいんだ」
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少々の打ち合わせの後、会議室を出る。席に戻りつつ、さっきの打ち合わせを振り返る。
着席早々「ここで働き始めて一年だがどうか」なんて聞かれた。
ぼちぼち慣れました、なんて浮ついた答えはまずかったか。
椅子を引きながら、仕事以外の考えを頭から追い出す。
次の仕事が詰まってる。こいつには、今日中に目途をつけなくては。
定時後に鳴るチャイムが、何度か部屋に流れた。机の上を軽く片付け、会社を出る。
タイムカードを通し出入り口の窓を見ると、雨が吹き付けていた。
「降るまでに帰るつもりだったのになあ」
小さくつぶやきドアノブを回す。
小走りで車に向かったものの、それなりに濡れてしまった。
エンジンをかけ駐車場を出る。家まではそう遠くない。
メーターを見ると、ガソリンが少なくなっていた。
記憶が正しければ、今日はガソリンの安い日だったはずだ、ついでに寄っていこう。
※ ※ ※
給油ノズルを突っ込み、レバーを引く。
カタカタという音をたてて給油が始まる。この時間はいつも暇だ。
ほう…と息を吐くと、追い出した自意識が鎌首をもたげてくる。
あのとき部長はどんな言葉を求めていたんだろう。
みんな口々に意見を求めるけど、実際は聞きたい言葉を吐いてほしいのであって、本当の事が聞きたいわけではない。
本音を出せば、かえって誤解されたり傷つけたりする。
……いつまでこんな人生が続くのだろう。
今の会社に再就職して一年。平均寿命から考えれば、折り返し地点にも来ていない。
友人は結婚して子供がいたり、職場でそれなりの立場にあったりだ。
僕は、まだ何も成していない。これから成していけばいいのだろうか。
気が沈んでいることを自覚して、気分を変えようと大きく息を吸う。
近くの街灯のまぶしさを感じながら吐きだした。胸の痛みが、少し引いた気がした。
その時、ふと違和感があって街灯を見た。
今まで気づかなかったが、寄りかかるように人が立っている。
入るときには見なかったが、疲れて見落としていたのかもしれない。
よく見てみると、雨脚はそれなりに強いのに傘もささず濡れるに任せている。そして浴衣だ。
正気でも訳アリ、でなきゃ、まともじゃない。
「まいったな……」
思わずつぶやく。
助けるべきという自分と、面倒ごとは避けろという自分が意見を交わす。
結論を出せないまま、給油が終わったことを告げる手ごたえがノズルから伝わる。
釣銭機でお金を受け取り車に乗り込むと、運転席の左側にタオルがあることに気付いた。
だいぶ前に何かの景品でもらった記憶がある。
その隣には、ビニール傘。
「……乗ったまま声をかける。おかしなやつだったらとばして逃げる。それでいい」
考えを口に出すのは、メンタルコントロールの一環だ。
※ ※ ※
膝にタオルと傘を乗せ、街灯に立つ女にゆっくりと近付いて窓を開ける。
緊張で心臓が鳴る音がする。
「あのー、すみません。これ、良かったらどうぞ」
そう言って傘を差し出す。
長い髪の先からは雨が滴っていて、タオル一枚では焼け石に水かもしれない。
彼女は僕の声に反応して、顔を上げた。
僕は彼女の顔を見て、自分の顔が熱くなっていくのを感じながら固まってしまった。
青磁の様な肌の上を、玉となった雨が滑り落ちていく。
貼り付いた黒髪を分ける白いふっくらとした指先。
黒目がちに透き通った瞳は、つむり気味のまぶたと長いまつげに強調されている。
頬は淡く赤味がかっていて、ぷっくりとした薄紅色の唇は濡れている為かてらてらと光を反射していた。
すっきりとした顎から続く首、うつむき気味な姿勢を考慮しても明らかに帯に載っている胸は、非常に豊満であることを予想させる。
視線を胸に向けてしまったことを自覚し、あわてて目線をそらす。
悟られているとは思うが、彼女の顔を見る勇気はなかった。
「……っと、ごめんなさい。下心があったわけじゃなくて、その、濡れて立ってたから。タオルあったから」
普段は考えてから口が動くのに、こうなると訳が分からないことを言ってしまう。
「あ、あとこれも」
差し出した傘をひっこめてタオルごと差し出し
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