築十数年の多少くたびれたアパートの一室、畳敷きの床の座布団の上に座り込んだ青年は考える。
彼はこのアパートの住人であり、この部屋は彼がここ数年暮らしている生活の拠点である。
周囲に空のペットボトル等が散らかり、台所にはインスタント食品の空袋などがごみ袋の中にまとめて捨ててある。
いかにも不精な男の独り暮らしといった風情の光景の中、彼の目前のテーブルの上には少し不釣り合いな品物が一つ。
プラスチック製のタッパーのふたが開かれ、中にはニンジンの赤が色鮮やかな野菜の煮物。
ほこほこと湯気を立てる眼前の料理を前に、青年はううん、とうなり声を上げて腕を組み、どうしたものかと思い悩んでいるのだった。
青年、笹野和人がこのアパートに越してきたのは随分前の事になる。
少し小さなアパートは築年数相応に老朽化が進んでいて、彼がここに住むことを決めたのはひとえに家賃の手ごろさであった。
風呂、トイレは小さいながらも各部屋に用意されているし、隙間風などの目立った問題も今のところは存在しない。
駅や大学までのアクセスが不便であることを覗けば、それほど裕福ではない学生にとっては理想的なアパートであるように思えた。
それから時が過ぎ、既に和人は大学を卒業、就職先も無事に見つかり今では立派に社会人。
学生時代には気にしていなかった駅までの遠さも就職してからは問題となり始め、アパートも段々狭苦しく感じるようになった。
もともと大学進学のために一人暮らしを始めた身、卒業した後はどこか就職先に近いところへと引っ越すつもりでこのアパートを選んだのである。
どこか適当に別のアパートを探そうとも思うのだが、彼にはこのアパートを離れることのできない理由があるのだった。
時を遡ること僅か、和人が仕事を終え、アパート前まで帰り着いたときの事。
既に陽は沈んで久しく、周囲はすっかり夜の暗闇の中。点々と置かれた街燈が僅かに道路を照らしている。
駅からの道のりを歩いて帰ってきた和人は、アパートの明かりの下まで着いたことにふぅと溜息を一つ。
肌寒い季節の風が吹くようになり、ここ最近では毎日の駅までの通勤が負担に感じられるようになってきている。
自分が学生のころに比べて衰えてきたのか、と半ば自嘲じみに考え、アパートの階段を上る。
階段を上った先の廊下、自分の部屋の前に見知った人影を見かけ、和人が反応するよりも早く挨拶の言葉がかけられる。
「あ、おかえりなさい。寒くはなかったですか?」
「今晩は。上着もありますから大丈夫ですよ、美雲さん」
柔和な微笑みで挨拶され、自然と和人の頬がほころぶ。
和人にとってよく見知った顔、隣りの部屋に住んでいる三条美雲さん。
艶やかなロングの黒髪を垂らし、普段から和服の着物姿で生活している。物腰が丁寧でまさしく和服美人といった態。
世話焼きな性格であるらしく、このアパートに引っ越してきて以来何かと独り暮らしの和人の身の回りの世話をしてくれる親切なお姉さんである。
「今日も夕飯を作りすぎてしまったので、お裾分けに、と思ったのですけど……」
「いつもいつも、ありがとうございます。自炊がてんでダメなもので、助かってますよ」
「ふふ、単に食べきれない分を差し上げているだけですので、お気にせずとも良いのですよ」
控えめに口元を手で隠して笑う美雲だが、当然の話ではあるが分量を間違えて作ってしまうことなどそうそう有るものではない。
和人がこのアパートに引っ越してきて以来度々お裾分けとして手料理を頂いているのであり、美雲が和人を気遣って料理を分けてくれているのは間違いないことである。
和人が美雲からタッパーを受け取る。タッパーにはまだ熱がこもっていて、恐らく美雲がお裾分けに来た丁度その時に和人が帰ってくる事が出来たのだろう。
「毎度お粗末な料理ですけど、よろしければどうぞ召し上がってくださいね」
「いえ、美雲さんの手料理は他のどんな料理よりも美味しいですし、俺ならいくらでも食べられますって」
「あら、御世辞でもそのような事を言っていただけるなんて嬉しいです」
美雲が照れたように少しだけ俯くが、今の言葉は御世辞などではない、紛れもない和人の本心である。
お裾分けを受ける度に美雲の料理を褒めるも、当の美雲は謙遜なのか和人からの賛辞を素直に受けてはくれない。
和人はまだ美雲と話していたい気分であったが、吹きさらしの廊下に吹く風は室内着のままの美雲には少し堪える様子。
軽くお辞儀をして、美雲が自分の部屋へと戻っていく。彼女がドアを閉めるまで、和人はぼんやりとその後ろ姿に見とれていた。
垂らされた黒髪が歩くたびに左右に揺れ、和人の目は惹きつけられるようにその姿を追ってしまう。
彼女の姿が見えなくなってから数秒、和人は熱のこもった溜息を一つ漏らし、手の内にあるタ
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